黎明10 北氷洋の聖雄グレンフェル

  北氷洋の聖雄グレンフェル


  北海の冒険者

 たしか今より四十三年前のことであった。大西洋を小舟で横断しようと準備してゐる年若い一人の医者があった。しかし、大きな汽船で横断するならいざ知らず、二十噸にも足らぬやうな小さい船で、冒険的航海をしようといふのだから、船長になってくれる人もなければ、運転士になってくれる人もなかった。
 彼は一年待った。そして逐に、六月の第二週に、準備が全く整った。船は出た。しかし、アイルランドの南で暴風に遮ひ、アイルランドの最南端にあるクルクリーベンコに避難した。其処で彼等は、天候の回復するのを待ち佗びたが、十二日間、霧の中に閉ざされてゐた。しかし勇敢な彼等は、ただコンパスを頼りに港を出て、西北へ西北へと急いだ。
 十七日に霧は霽(は)れた。そして気が附いてみると、眼前には、緑に縁取られた陸地が横はってゐた。それは北米カナダの北に当るセント・ジョン港に近い処であった。どうしたことか、港には火焔が上り、街は同港第三回目の出火で燃えさかってゐた。その青年医師の一行が港に這入らうとした時には、火は一層激しくなってゐた。
 一体、彼は何をするために、この夏なほ寒きラブラドルの地に来たのであるか? 彼は一体何者であるか?

  漁夫への奉仕

 彼の名はダブリュー・トムソン・グレンフェルといった。彼は、一八六五年二月二十入日、英国ベーダゲートに生れ、豪族の血を承け継いでゐた。彼は小さい時から非常に学問が好きで、マルボロ商業学校では優待生であった。彼は十八歳の時呼吸器を患ひ、一時フランスの南部地方に保養してゐたこともあった。
 彼が十八の時、彼の父は学校の教師を退いて、ロンドン病院の牧師になった。その時彼は、将来の方針をたてる必要があったので、或る医者に相談したところが、医者になるか、彼の兄貴の行ってゐるオックスフォード大学に這入れと薦められた。それで彼は、医者にになることを決心して、ロンドン大学に学ぶことになった。
 彼が丁度二十歳の時であった。有名な米国の説教者ムーデーとサンギーがロンドンに来て、天幕伝道をした。グレンフェルが宗教的確信を握るやうになっだのは、このムーデーの弟子であるステッドの感化によったものであった。それは彼が医科大学の二年生の頃であった。
 神を発見した彼は、すぐ日曜学校の教師となり、貧民街の宿泊所に行って貧しい人々に接近するやうになった。そして夏が来れば、海に出て、海洋の自然美を漁りつつ、他日の備へをした。その年彼は、医学士の単位をとり、英国皇帝から卿の爵位を与へられた医学博士アンドリュ・クラーク氏の指導を受けることになった。
 その冬、丁度クリスマスの時であった。彼の父の兄弟で大砲及び望遠鏡の発明を以て有名なアームストロング工場長をしてゐた叔父が病気になったので、暫くの間叔父の看護に費し、かたはら貧民窟の仕事に専念した。
 彼の二十一歳の時、彼は愈々開業医たるの資格が出来たので、ロンドン大学病院の患者を診ることになった。そして二十二歳の時、北海に働く漁夫たちに奉仕しようと、一箇月の間、ノース・シー(北海)方面を周遊してきた。それから彼は断然決心して、漁民たちの病院事業に一生を献げることにしたのであった。そして彼は先づヤーマス町の漁民たちに学校を設け、薬局船を毎春スコットランドアイルランド、フランスの数千の漁民の間に派遣する運動を始めた。彼が二十六歳の時、サウスポール公爵がカナダ及びニューファンドランドの方面から帰って来て。グレンフェルの決心を促した。で、彼はここに断然、カナダの北部ラブラドルの淋しい漁民たちに仕へることにしたのであった。
 彼が二十噸そこそこの小さい船で大西洋を横切ったのは、全くそのためであった。

  二十呎の船

 北緯六十三度といへば、七月でもまだ、海の氷盤の溶けない処があった。そこへ鰊、鱈、海豹などを捕獲するために大勢の漁夫か群がってゐた。しかし、その漁夫のために働く医師とては一人もなかった。海岸の絶壁には一面に海鳥が巣を営んでゐた。鯨の一隊は、朝日を受けて静かに潮を吹いてゐた。病院船がドナノランに著くと、患者を筏に乗せて運んで来るものさへあった。
 かうして彼等は逐にセントローレンス河口の北端に位するバツル港と、大西洋に面するハミルトン湾の入口にあるインディアン港の二つの島を病院小屋に選んだ。
 グレンフェルはそれを根拠として貧しい漁夫のバラックを次から次に訪問した。彼は、どんな寒い冬の晩でも、犬橇に乗って数十哩の雪の上を無料診療に出掛けた。そして帰りが遅くなると、貧しい病人の家で、鶏を飼ってゐる箱の上に寝ることも屡々あった。
 そして早くも二年は経った。そこで彼は、一生をこのラブラドルの貧しい漁夫のために送ることを決心して募金運動を始めた。やっと、カナダのモントリオールの人でトーマス・ロドデックといふ人が、長さ二十呎のしっかりしたボートを寄附してくれた。これに乗ってグレンフェルはエスキモーの間にも診療事業を開始しようとした。彼は生れつきの冒険家であったので、狂風怒濤の吠え猛る北氷洋を、この小さい三間そこそこしかない帆船で、何百哩の旅行をすることを平気で断行した。
 北方の夏は短かった。彼がスケヤアイランド・ハーバーに来た時は、もう雪が地上に降り出した。しかもそこにゐた十二家族の漁民は不漁続きで、少しの食糧さへ持ってゐなかった。で。或る夜、村の長老アンクル・ジムの家で村民大会が開かれ。それが宗教的祈祷会と変った。
 ところが。どうだ、奇蹟的にも、暴風のために北に吹きっけられた商船が運好く入港してきた。そして彼等は、意外の食糧をその商船から貰ふことが出来た。この小さい二十呎の船は、また航海を続けた。また或る時は十一日間も氷の間に挾まれたことがあった。けれども、グレンフェルは小さい海岸の村から村を廻って、巡回治療をした。そして或る時などは、お産が悪くて死んでしまった病人を自ら葬り、ただ病者に一通りの治療を行ふだけでなく、喜んで奉仕をした。
 この船は後に小さい湾に繋いでおいたところか、氷盤の間に挟まれて、夜のうちに三百哩も南に流れてゆき、やっと人をやって、それを持って帰るやうな困難を見たこともあった。

  氷盤上の聖者

 丁度グレンフェルが歳三十の時であった。彼は、海豹狩に出漁する漁夫が、日本の北洋漁業に出る漁夫の如くほとんど、病気になっても数十日間医者にみて貰ふ機会心ないやうな状態にあることを知って、みづから進んでその一行の嘱託医とたった。
 ある朝、彼は船中の患者を診た後、午後になって海豹狩を見るために、単独で氷盤の上を歩いて、のこのこ沖へ出掛けた。ところが、船を出発して間もなく、氷盤を次第に一箇所に吹き寄せてゐた狂風がぴたりとやんでしまった。そこで氷は元々通り問隙をつくって、疎らになってしまった。そのためにグレンフェルと一緒にゐた十二人の漁民の一団は大きな氷盤の上に乗ったまま沖へ沖へと流され出した。船は遠い。日は暮れてしまった。止むを得ず、助け船が来るまで彼等は暗闇のなかで、幼稚園の子供がするやうな遊戯を始めた。蛙飛び、繩飛びなどして。体温が冷えないやうに努力した。そして飢ゑをしのぐために砂糖やオートミルに雪を混ぜて食った。また海豹の脂肪を取り出して。何回も火を点じて合図をした。それが効を奏して、真夜中頃グレンフェルの一団十三人は船に救ひ上げられた。
 こんな事が後にも起った。
 四十三歳の春(一九〇八年)、四月二十一日、グレンフェルが朝の仕事を終へて病院に帰らうとすると、犬を沢山繋いだ橇が、医者を呼びに六十哩の南方からやって来た。それは二週間前、彼に大腿
骨の病気で手術を受けた青年が、局部の化膿のために発熱して困ってゐるといふことを知らせてきたのであった。で、彼は。八匹の犬にひかせた橇に乗って出かけた。それは復活祭の晩であった。その夜、風は海の方から吹いて、雨と霧を陸地に送ったので、雪が溶け出して旅行は非常に困難であった。それで、彼はその日二十哩しか走ることが出来なかった。
 その晩泊った村には、沖から高潮がやって来た。次の日、彼が出発すると雨が降り出した。その雨は氷を溶かして、旅行することは非常に危険に感ぜられた。岸から三哩の処に小さな島が一つあった。この島があるために氷の橋が出来てゐた。グレンフェルは、この氷の橋を犬に協をひかせて、やっとのことで島に著いた。その島から湾の向ひ岸まで約四哩あった。それを真直ぐに氷の上を行けば、岸を迂回するより遥かに近いと思ったので、彼はあんまり危険とも思はないで、犬橇を急がせた。一哩の四分の一くらゐ行くまでは万事都合よくいった。ところがその時、東風が突然やんでしまった。そしてグレンフェルは犬橇に乗ったまま、氷盤と共に沖へ沖へと流されてゐることが判った。氷盤は砕けて、直径十尺くらゐの塊になり始めた。そして、彼の乗ってゐる氷盤が最も小さいものである事がわかった。で、彼は十間くらゐ向うに流れてゐる大きな氷盤に泳ぎつかうと思った。彼は疲労してゐて、眠気と戦ふのに困ってしまった。
 グレンフェルは、既に上衣も帽子も手袋も何処にやったか見失ってゐた。幸ひ、スパニエルといふ犬が、小さい氷盤にとりついて向うに泳ぎ着いたので、他の犬もそれに見倣った。さうする前に彼は二匹の犬に綱を括り付けておいたので、その綱を手繰って氷盤を引き寄せようとしたが、氷盤はなかなか此方に寄って来ない。で、彼は、自分の乗ってゐた氷盤の上で走り廻って勢ひをつけた。その勢ひで水中に飛び込み、犬の助けをかりて新しい大きい氷盤に上ることが出来た。
 グレンフェルは凍死を防ぐために、前もって二匹の犬に縛りっけておいた長靴を切ってジャケツを作り、吹き募る風に対して身を守った。その日の昼頃。彼は更に島の傍から沖へ沖へと流された。たうとう夜が来てしまった。そして沖へ約十哩も流された。で、彼は決心して、凍死を免れるために三匹の犬を殺して、その皮を身体に纏うた。足が凍った。それで犬に括り付けてゐた麻繩を足に捲き付けて暖をとった。そして彼は一番大きな犬を抱いて、犬の毛皮を被って睡眠にっいた。しかし、抱いてゐる手は凍えて切れさうになった。奇蹟的に風はやんで月が上った。まだ眠くて仕方がない。彼はまた犬を抱いてうとうとした。こんど眼が醒めた時は、太陽が上ってゐた。彼は殺した犬の骨を麻繩でつないで、その先にシャツを結び付けて旗を作った。
 しかし彼は信仰の人であった。そんな氷盤の上で二十余時間も流されてゐた時でも、徹頭徹尾恐怖心を抱かなかったと書いてゐる。彼は、大声で讃美歌をうたひ、救助船の来るのを待った。救助船はたうとう来た。それは、前夜海豹を料理するために半島の上に上った漁夫の一人が彼の姿を見附けたが、危険で近附けなかったため、暁になって五人の義勇船員が氷盤を物ともせず、彼を救ふために出掛けてきたのであった。彼は救はれたが、凍傷にかかった彼の足と手が甚だしく痛んだので、彼は一週開近く病床に横はった。

  貧民の友

 かうした苦労を二十年近く繰り返した後、彼は四十四歳の時、北米シカゴ市で初めて結婚した。彼はかうした困難な事業に献身してくれる婦人がないと思ってゐたのであった。幸ひシカゴの銀行家でスターリングといふ人の娘が、喜んで彼の一生の友として北氷洋に行ってやらうと決心してくれたので、話はすぐ纏まった。彼は、三人の子供の父である。
 彼は、ラブラドルの漁民のために働いてゐるうちに。疾病と経済の関係を考へた。そして予防医学の立場から、単に薬をやるだけでは貧しい漁夫の病気を直すことが出来ないといふことを発見した。彼は先づ生産事業を起すために製材所を創立した。また馴鹿の牧場を起した。
 製材所は成功したけれども、千三百頭に殖えた馴鹿の牧場は土民の反対によって中止せざるを得なくなった。彼は人の気のつかない時から養狐事業を起した。しかしこれも途中で放棄することを余儀なくせられた。
 彼は、さうした生産事業のほかに、協同組合の運動を起した。それは漁民を搾取する商人の手を経ずして日用品を買ひ入れる消費組合であった。猛烈な反対が起った。それにも拘らず、彼は十箇所以上組合店を創立した。最初は一年間に一割の配当をし、三百弗の積立をした組合が、やってゐるうちにだんだん損をして二万五千ドルも借金を作ってしまった。しかしグレンフェルは喜んでその責任を負ひ、彼個人の所有であった帆船等を売り払ひなどして、全部その協同組合の負債を整理した。
 かうして彼は、一介の医療宣教師の立場から新大陸の開拓者として精進した。そしていつとは知らず、世間の人も彼の偉大な事業を認識するに到った。
 一九〇八年の春、彼はオックスフォード大学から医学博士の名誉学位を授与され、数年前には英国皇帝から貴族の位を授けられるに到った。しかし彼の事業は飽くまでも貧しい漁民たちの間にあった。彼は宗派を超え、小さい人間の嫉妬心を超えて、如何なる人をも愛した。彼は孤児を引き取り、子供ホームを作り、学校に恵まれないエスキモーやラブラドルの土人のために教育事業を起した。
 彼は今猶健在にして、ラブラドルで働いてゐる。彼は口の人ではない。彼は愛の人である。彼は理論の人ではない。実行の人である。リヴィングストンが無口な愛の実行者として中央アフリカ奴隷解放に努力した如く、グレンフェルは悩める北洋の漁民を医したのみならず、彼等の全生命を救ふために努力した。
 彼は自叙伝にこんなことを書いてゐる。
「――私たちが病気の予防のための慈善よりも治療上の慈善を選ぶ時、「愛」は危険なほど感傷に近附いてゐるのである。――そして私は伝道資金の運用から見ても、予防よりも治療に重きを置くことは誤れる経済であると思ふ。産業的伝道、教育的伝道、及び孤児院の事業は、少くとも病院と提携して行はれてこそ、愛の福音のほんたうの解釈にかなふものである」
 かうした大きな幻を持つ北氷洋の貧しい漁民の慈父グレンフェルが、今日欧米に於ける最も偉大なる愛の人として尊敬を受けてゐることは、あまりにも当然なことである。
 まことに彼の超人間的奉仕の生活は、われわれにとって一大模範であるといふことが出来る。