黎明25 奮闘の人・繁栄の村

  奮闘の人・繁栄の村

  林檎で救はれた村

 青森県は去年も今年も饑饉と洪水の災害に見舞はれたが、幸ひに、林檎で村の会計をつけてゐる地方は比較的困ってゐない。これは、佐藤勝三郎氏の林檎栽培に対する偉大な貢献の結果である。
 今から約五十年も前のこと、佐藤氏はクリスマスの時に、西洋人の宣教師から妙な果物を一つ貰った。後で分ったことであるが、それは林檎であった。彼は他の人が食ってゐるのに食はないで、そのまま自宅に持ち帰り、庭に埋めて置いた。ところが不思議にも、翌年の春、それが芽生えて生長して来た。そこで佐藤氏は。アップルと称する西洋種の林檎が、日本に於いても栽培せられることを知り、種々研究の結果、岩木山の東側、主として岩木山はよって強い西風を防ぎ得る地方だけに、日本に於ける最も良き林檎が栽培出来ることを発見した。
 この林檎は毎年、宮中に差上げられる青森県特産の林檎で、名をインドと呼ばれてゐる。それを最初にくれた宣教師が、北米合衆国インディヤナ州の出身であったが故に、土地の人はこれを省略してインド、インドと呼びならして来たのである。それが青森県に最も豊富にある林檎であって、今日では年産額約五百万円に達するやうになった。そのうちに。青森県庁は林檎が青森県に適することを知って、県自らが林檎の苗木を北米合衆国より、輸入するやうになり佐藤勝三郎氏も自分の庭を林檎畑に作り変へて、更に良き林檎の栽培に貢献したのであった。
 この貢献に依って、氏は藍綬褒章を戴いたのであった。それ以来、青森県津軽半島などでは饑饉の憂ひは非常に少くなった。微細な点に努力しても、それが村を救ふ端緒になることがあるのである。

  牛乳と信用組合で更生

 北海道の石狩川方面は凶作と洪水で悩んでゐるが、不思議に北見方面の諸村は饑饉の憂ひから免れてゐる。その主な理由は、村が一致して乳牛の飼育と養鶏貯蓄組合に依って信用組合を作ったことにある。
 北見国遠軽町は北海道に於いても比較的気候に恵まれない地方であるが、その方面の農村が饑饉に窮乏しなかった一つの理由は、乳牛組合に依って経済的に余裕があったためである。その背景には、北海道酪農組合長宇都宮仙太郎氏の隠れた努力があった。
 宇都宮仙太郎氏は、早くから北海道に適する乳牛の輪入に努力し、生産組合並に販売組合の組織に努力した。そして、自分の家族の者をデンマークに送って、デンマーク農業の経営方法を学んだ。そしてほとんど全財産を投げ出して酪農組合の組織に着手し、友人等に助けられて、日本に於ける最も大きな販売組合を組織するに至ったのである。北海道の製酪の八九割までは、宇都宮氏を組合長とする酪農組合に依って統制されてゐるのである。
 資本家側の、営利を基礎とする牛乳の会社は、最近の恐慌と不景気のために農民に迷惑を掛けて、農村から退却した。その後を受けて、宇都宮氏を中心とする酪農組合は献身的の努力を払ひ、農産物の価格の暴落の際にも、農民の生活費を補ひ得る程度に価格を維持し、穀類の取れなかった昭和六年の冬にさへ牛乳を生産し、これを北海道酪農組合に納めた者に対しては、冬期間の生活費を全部保障した。この為に、北海道の農民はどんなに救はれたか知れない。遠軽附近の農民の一人が「乳牛組合のあったお蔭で、私たちは饑饉から逃れた」と私に話してゐた。私は、日本の荒地を利用する方法を知り、これを共同組合の力に依って維持するならば、饑饉或は凶作の場合にも農村は決して困憊(こんはい)しないことを知ったのである。
 なほ、遠軽地方で私が感心したのは、同地の人々が、信用組合を作る資金が無かったので、約一年間、鶏を飼ひ、その卵の代金を全部貯畜し、一万円以上の貯畜が出来たので、それを基金として信用組合を作ったことであった。これによって、農村の金融は非常に円滑になり、その附近の農民の潤ひは非常なものであったとのことである。

  養鶏組合で繁栄した村

 大阪府三島郡山田村には、二十七戸の小作農があったが、或る横暴な地主の為に五年ほど前全部土地を取り上げられてしまった。
 当時私に相談があったので、私は養鶏組合を作って生活を維持することを奨めたところ、彼等は直にその実行に移り、二里近くもある追い所に荒地を買ひ入れ、鶏の飼料を作り、其処で協同耕作をし、良き種卵を買ひ入れ、棄てて置いてあった養鶏場を復興し、二十七家族が一団となって養鶏組合を始め、好成績を挙げた。しかるに卵の値段が暴落したため、一時非常な困難に陥った。そこで、二十七軒の人々が卵の卸問屋に卵を送らないで、自ら小売りすることを思ひつき、毎日、その日その目の卵を持って大阪京都方面へ出かけ、一一小売りして廻った。その為に卸問屋に卸す倍くらゐの値段で卵が捌けるやうになったのであった。
 やがて卵の品種が非常に良いことが知れ渡り、大阪方面の各村及びその附近の養鶏組合から、進んでこの種を取寄せるべく、この養鶏組合に申込むやうになって来た。その為に、今日二十七軒の小作農は愉快な生活が出来、なほ余裕を生じてゐる。これなどは、小作農が土地を離れた場合、如何にすべきかの一つの良き暗示だらうと思ふ。

  最初の組合診療所

 今から十年前、島根県八束郡秋鹿村に、加藤佳吉といふ青年がゐた。
 彼は貧乏な農家に医者の来てくれない事を憤慨し、断然意を決して産業組合に依る組合診療所を経営することを思ひ立った。郡の医師会は猛烈に反対したが、知事が同情したので、小さいながらにも、日本で最初の組合診療所を開設することに成功した。今は内科の医者と歯科の医者の二人に依頼して、約千二百戸の農家に、組合に依る診療を続行してゐるが、これに倣って全国的に拡まったのが、今日の医療利用組合運動である。私はこの組合診療所を訪問して、平和の村から病気に依る貧乏が一掃されたことを見て喜んだのであった。
 この運動が鳥取県倉吉に飛び火して、今日倉吉町を中心とする産業組合に、約五千戸の人々か。僅か一日二十五銭の入院料で診療を、受けることが出来るやうになったことは、実に嬉しい事である。約十三万円の費用を投じて、倉吉町に大きな組合病院を設立し、院長には有力な医学博士を迎へ、病室に一等二等三等の区別を廃して、或ひは休養室、或は安静室といふやうな美しい名前を付けて、数人雑居する部屋には部屋料として一日僅か二十五銭を課し、食事は全部自炊するやうになってゐて、一ヶ月病気しても僅か七円五十銭位の金を払ひさへすれば、手術料の外は何等憂ふることなしに入院出来るやうになってゐる。これなどは、一人の青年が一村を救ひ得る方法を案出した結果、更に他の村の救済の途が開かれた好模範である。

  籾殼を焼く器具

 宮城県亘理町に近い農村に、森孫太郎といふ老人が住んでゐる。この人は、宮城県の南部の農村が疲弊してゐるのは、土地の改良の出来ない為であることを知って、自ら籾殻を焚いて灰にする器具を考案し。籾殼を焼いてそれを土に混ぜ、多くの膠質を造り、これに依ってこの地方の米殼の収入を約倍加することに成功したのであった。
 今日、森老人は官城県に於いて有名な篤農家の一人になってゐるが、土の性質を研究して、必ずしも西洋農法に依らず、日本従来の農耕法を用ひて村を改良し、貧しき村を救ふ一つの方法を編み出した。今日では、森氏の考案した。籾殻を燃焼せしめる器具は全国的に拡まってゐるが、その器具を誰が発明したかを知ってゐる人は極く少いであらう。

  琵琶湖畔の出来事

 滋賀県東浅井郡朝日村海老江北陸本線虎姫駅に近い農村であるが、琶琵湖との関係で、冬期にはこれまでほとんど裏作をしなかった。
 そこに酒井良次といふ一人の青年があった。
 彼は基督教的信仰に燃えた優秀な愛郷的青年であるが、断然、湿気の多い冬期間の田圃の隅に、一坪余の深い池を作り、畝を高く積み上げて、そこに大麦を植ゑることに成功した。彼等の同志が村に二十七人くらゐあったが、皆彼に見習って、幾百年間棄てて顧みなかった豊饒な琵琶湖畔の田圃に、冬期大麦栽培を始めることに成功した。これに依って、たとへ夏期に洪水で稲が全部流れても、食物は絶対に不足しないやうな方法が講ぜられたのである。
 なほ同君は、青年会の会長をしてゐた時、率先して奉仕的協同耕作方法を始め、ガソリン・エンヂン二台を買ひ入れて、農家の籾摺を全部青年団で奉仕的にすることにした。その外、彼は田の周囲を利用して樹木を植ゑ、或は琵琶湖畔の小溝を利用して雛鯉の養殖を始め、雑草を利用して山羊を飼育し、これまで使はなかった牛を琵琶湖畔の農業に使用することを始めた。
 更に彼は、嘗て考へられなかった、農村の日用品を取扱ふ消費組合を、青年団の幹部達と相図って始め、同志と共に農繁期の託児場を創設し、保健組合と称する団体を組織して、青年の理髪を相互的にやって理髪屋に払ふ金を貯蓄し、それを村の衛生運動に使用することにした。
 かうして、一つの小さい部落であるけれども、彼の指導に依って、如何なる災厄があっても、村民が饑饉に苦しむといふことは絶対に無くなった。彼は僅か二十六歳であるが、彼の如き青年が次々にあらはれるならば、農村の自力更生は容易であると私は信ずるのである。

  忠犬パピー

 関東の大震災のすぐ後、私は神戸から上京して、震災で不幸になった人々を救ふために働きました。そのために疲れたのでせうか、翌年三月、病気になって、静養のため東京市内から少し離れた松沢村に住むことになり、四月の上旬、家族とともに移ったのでありました。
 その時、知人から小犬を一疋おくられました。白に茶のぶちのある可愛い小犬でありました。名前もそのままパピーと呼んでゐました。
 その時分、私の長男は三歳でしたので、パピーは全くよい遊び友達でありました。
 又パピーはよく家の番をしました。あの時は、鳥籠の文鳥を、大きな青大将がねらってゐるのをパピーが見つけて、吠えて家人に注意したので、危く呑まれようとした小鳥が、助かることが出来たのでありました。
 鶏も四五十羽飼ってゐたのですが、パピーがゐるので鼬に捕られることもなかったのでした。
 パピーは、その後度々、可愛い小犬を産みました。パピーに似た茶色や白黒のぶちなどの小犬が、ころころ歩き出すのを見て、長男は大よろこびでありました。
 二年目の十月、私たちは東京の救済事業も一まづすんだので、家族全部が東京を引き上げて神戸に帰ることになりました。今まで住んでゐた家へは、引き続き友人が来ることになったので、パピーはその友人にあづけて行きました。
 すると、パピーは十人家族の私たちに別れて、非常なさびしさを感じたのでありませう。毎日二町ばかり隔った京王電車の停留場へ、帰りもしない私たちを迎へに行くやうになりました。一日中待ち続けても、私たちの姿が見えませんので、打ちしほれながらパピーはとぼとぼと夕方帰って来て、縁の下の自分の寝床に寝ます。けれども、迎へに行くことはやめず、来る日も、来る日も、パピーの日課は変りませんでした。
 新しい飼主は、初めのうちは気づかなかったのでありますが、おひおひパピーの美しい毛並は艶がなくなり、元気は衰へ、痛ましくやつれて行きました。そして私たちが恋しさに、食事もしないで、
一日中停留場で私たちを待ちつづけるわけが戸も友人にも明かになりました。
 パピーはだんだん衰弱が増して行きました。そして、可哀さうに、再び私たちが私沢村に帰る日を待たないで死にました。
 際立った忠義をし、大きな手柄を立てたといふのではありませんが、これほどまでに主人をおもふハピーの美しく優しい愛情に対しては、私たちは心から感謝してゐます。

  武蔵野の魂の記録

 武蔵野の空は高い。そこを飾る欅、椋、樫の森は、青空を彩る自然の刺繍だ。黒土の底から、薄、女郎花、十二単衣、風蘭草が出てくる。火山灰の上に作り上げられた、日本で最も詩的なこの平野は、また多くの詩人を生んだ。そしてその詩人の中、『みみずのたはこと』の作者は、おそらく、彼みづからみみずであることを意識してゐただけに、最も深く武蔵野の土壌の精を吸ひ込んだであらう。
 私は、十数年前初めて『みみずのたはこと』が出た時に、一気にそれを読みきった。或る処は歓喜にひたりつつ、また或る処は、自然の慈愛に感激の涙を流しつつ、私は、武蔵野の精が物語るままに読んだ。
 徳富蘆花は、武蔵野のみみずである。彼は一旦武蔵野に這入ってから、ほとんどそこを出なかった。折々他処に出ることがあっても、再びその草葉の蔭に帰って行った。私は度々彼を誘ひ出しに行った。しかし、この土の精は武蔵野の土のかをりを捨てようとはしなかった。そしてたうとう武蔵野の土となってしまった。武蔵野の土は、蘆花をはらみ、蘆花として物語り、蘆花として死んだ。彼は武蔵野の精である。
 科学者は、武蔵野の土を分析する。しかし、土の精には触れない。
 詩人蘆花は武蔵野のみみずであったがゆゑに、土の精を物語る。彼が土について報告する事は、全く顕微鏡的である。彼は、庭にのび上る一本の草花の歴史をよく知ってゐた。『みみずのたはこと』を読む者は、如何に彼が丁寧に何年何月何日に、何々の草が何々の地より武蔵野に到着したかといふことを、詳しく報告してゐることに気がつくだらう。彼は、一本の雑草の誕生日をもよく記憶してゐた。まことに彼は武蔵野のみみずであったがゆゑに、狭くはあり、窮屈ではあり、人に踏み附けられることに甘んじたけれども、そこに彼は、彼の運命を発見したのであった。
 彼はなかい論文は書かなかった。彼は、土から発散する蜉蝣(かげろう)のやうに、断片的に『たはこと』を書き附けた。このみみずの日記帳が、みみずの魂の日記であり、武蔵野の精の自叔伝であるのだ。ほんとに、よくまあ、こんなに真剣な、そして深刻な土の記録がのこされたものだ。この作は、断片的手記であるだけに、武蔵野の生命の総てに触れることが出来た。しかし、断片的に書かれたこの『たはこと』は賢人の哲学よりも深い真理をわれわれに教へてくれる。神の愚は人の智慧よりも賢いと、昔の人はよくも云ったものだ。
 『みみずのたはこと』は、近代に書かれた日本の多くの哲学書にも勝って深く宇宙の真理を啓示してくれる。あの平凡に書かれた『草とり』や『不浄』の記事の如き、まあ何といふ深い真理をわれわれに教へてくれることだらう。彼は自然淘汰の苦しい戦ひの中に、強い宇宙救済の意志が働いてゐることを決して見のがさなかった。これを彼は、理論として記録しないで、不浄物の始末において見たのであった。
 彼、土から生れたものの中に、人の子をも数へる、武蔵野のみみずは、彼の頭の上を踏んで通った、多くの、土で製造された人間の消息についても、観察を怠らなかった。しかし、そこにも彼は、みみずとしての尺度を忘れない。彼の見た『土の子』はやはり土臭い香がしてゐる。このみみずは、七千三百マイルの直径を持つ土のかたまりを基礎にして、土にわいた『人間虫』の観測を怠らなかった。それが毛虫に類するものであっても、それが乞食の安さんであっても、かれは見のがしはしなかった。安さんは土の上を歩いた。そして歩き廻っただけでも、みみず自身よりも多く歩いたかも知れない。しかし、武蔵野のみみずは、土で出来た乞食の安さんを、武蔵野の産物の一つに数へてゐる。乞食のラザロをも天国に送り込んだ。天の親父の消息が見える。武蔵野のみみず蘆花は、土の下から天の親父の気持で総てを記録した。そのためであらう、彼の記載する総ての自然は、実に温かい自然であり、情の深い自然である。天空にかかる、直径七千三百マイルの土のかたまりは、宇宙の心臓であり、神の顔であったのだ。
 『みみずのたはこと』は、永遠の真理を私に物語ってくれる。