黎明27 西大阪は歎く

  西大阪は歎く

  東半球の氷河中間時代

 災厄が始まるとそれが続くものである。米国カリフォルニアにあるヨセミテ国立公園の博物館で、年輪の週期律的研究を見た時、私は冷気が三十年くらゐ続いて、またその後で三十年くらゐのよき天候の季節のあることを教へて貰った。そして、天災が続くと人心が動揺し、人心が動揺すると、戦争や暴動が頻発するものである。
 最近日本では、大正十二年からほとんど毎年災厄がつづいてゐる。大正十四年には但馬の大地震があり、昭和二年には奥丹後の震災があり、次の年には伊豆の大震災、昭和八年には三陸の海嘯、昭和九年の三月には函館の大火、昭和九年九月二十一日には、関西の大風水害が起った。
 その上、北緯三十五度から北の日本は、冷害のために凶作であり、北緯三十五度以南の土地は、干害のために凶作で困ってゐる。私は最近北海道及び東北を旅行したので、各地の雨量の増加率をきいて廻ったが、函館、小樽、札幌、旭川の各測候所は、四十年前と比べて二割以上降雨量が多くなってゐる。
 私がこの事に注意し出したのは、西半球に於ける氷河時代の到来を学者がみんな喧しくいひ出したので、東半球はその逆を示してゐはしないかと考へついたからであった。哺乳動物の歴史からいふと、われわれは氷河の第四期と五期の間に挾まってゐる訳なのである。そして西半球は第五期の氷河時代に這入らうとしてゐる。反対に、東半球はこれから暖流が北までさし込み、シベリアの氷が溶け、五万年前の生物であったマンモスの生肉が、そのまま松花江に流れ出るといふやうな奇妙な現象を示してきてゐる。
 こんな事から、私は北緯三十五度以北の日本は、これから益々降雨量が加はり、洪水が週期的に起り、悪くゆくと、太陽熱の欠乏のために相当に長い期間凶作の来襲を見るのではないかと案じてゐる。そしてそれとは逆に、北緯三十五度以南は、降雨量に変化を生じ、それより北とは全く異った状勢を呈するのではないかと思ってゐる。こんなことに就いて、私はアマチュアであるから確かなことはいへないけれども、いつも旅行しがちな私は、各地の気候を比較研究してみて、近頃、そんな事が頭に浮かんでゐるのである。

  北太平洋低気圧地図

 昭和九年二月、私はフィリッピンに行く途中の船の中で、偶然にも、北太平洋低気圧の進路地図が神戸海洋気象台の手で作成されてゐることを知った。それは実に貴重な資料であると思ったので、私はわざわざ神戸海洋気象台に貰ひに行った。何でも北大西洋は米国が責任を持ち、北太平洋は日本が責任を持ってゐるのだと聞かされたが、私はその十年間の平均低気圧進路図を見て、風にも道があるのだなと感心したのであった。それによって、私は三月に函館に大火が起る理由も知ることが出来た。その頃函館には漁夫仲間で『大西風』といはれてゐる風が必ず吹いてゐる。その地図によって、私は、八月九月に紀州から大阪方面が意地悪く苛められることを了解してゐたのであった。九月二十日の晩の夕刊で、私は、暴風が沖繩に現れたことを読んだ。そしてそれが、神戸気象台の低気圧進路図によって、九州の南から和歌山県を掠めて、東京まで東海道を直線に北東に走ることをよく理解してゐた。それが八月であれば玄海灘に出て日本海を荒し、青森県の上を西から東に横切って、太平洋に出るべき性質のものだといふことも考へてゐた。しかし、九月であるので、必ず土佐沖から和歌山県の田辺地方を荒して、東海道の五十三次を北上するだらうと予測してゐた。
 ところが、あとになると、そのコースはやや北に寄って、大阪京都方面を襲うて。日本アルプスで三分したと聞いたが、私は、心構へしてゐただけに少しも慌てなかった。だか、あんな大きな損害を大阪方面に与へるとも予期してゐなかった。

  西大阪の津浪

 白状するが、私は、九月二十一日の災厄が甚だしいといっても、それは軍需品工場や粗悪な小学校建築に致命的な損害を与へただけであって、西大阪が浸水したといっても少しばかりの風水害であらうと思ってゐた。
 その日、東京府北多摩郡千歳村上祖師谷の、私の関係してゐる農民福音学校の校舎の一部分が屋根を吹き飛ばされたので、大阪の被害もその程度であらうと思ってゐた。それが、大阪に帰ってみて、風害もひどかったけれども、そのために起った津浪の災厄の方が、更に深刻であったことを聞いて全くびっくりした次第である。
 一体、こんどの関西の風水害の記事は、大阪に関係のある新聞のほか、東京ではほとんど馬鹿にしてあまり書いてゐない。殊に、津浪の記事などは全く無視してゐるといふやうな傾きがあった。それもその筈、大阪にゐる者でさへ津浪のあったことに気がつかなかったといふことである。しかし、大阪で聞いてみると、この度の津浪はとても大きなものであったらしい。自動車が二十分かかる距離の処を、大きな津浪が十七分くらゐで走って来たので、運転手などで自動車諸共溺れて死んだものが多数あったとのことである。
 私は、大阪此花区四貫島にセッツルメントを持ってゐるので、電文を見ただけでは、ただ水害があったのだと思ってゐた。大正十四年に四貫島にセッツルメントを開いた時、そのあたりが低いので、私は新築する時、街路より約三尺ばかり床板を上げて家を建築したが、それでも床の上約二尺三寸くらゐ浸水して、書棚を下二つ濡らしてしまった。潮があんまり速かったので。書物を上の棚に上げる暇も全くなかったといふことであった。
 私の処から約六丁ばかり海に近い(海岸からは約小一里離れてゐる)恩貴島町方面では、「あ、水だ!」といった瞬間に、もう床の下に浸水し、私の友人などはカナリヤの箱を持って二階に上った瞬間に、床の上二尺ばかり水が覆うて、畳がぶくぶく浮き出したといふことであった。
 それから更に、恩貴島橋を渡って、住友の経営してゐる北港の住宅地に行くと、その附近の津浪は一戸深刻なものがあった。そこにも私たちはセッツルメントの分館を持ってゐて、小さい木造家屋を保育所のために建てて置いたが、僅か五分間のうちに、軒まで高潮がやって来て、ピアノが璽覆し、風に遊戯室の屋根は吹き飛ばされ、主任保姆の住んでゐた家では、浪に壁を打ち破られ、大きなピアノが流されて行方不明になるといふ始末であった。それもその筈である。その裏には浚渫船が、海岸から十四五丁も押し流されて。住宅地の裏の畑のまん中にぽかんとしてゐる有様であったから。

  権蔵ケ原の漁夫

 しかし、まだこれより気の毒なのは、新淀川の南岸の提の下で、古トタンを張って十八家族が、小屋掛けの中に避難してゐる漁夫たちである。私はその人たちの気の毒な話を聞いた。
 朝早く。小松さんは――私はこの人から一時間半くらゐ新淀川の堤の上で話を聞いた――浜に立った。どうも浪の打ち方が普通と違ふので、をかしいと思った。そのうちに風は激しくなり、見る見るうちに十八戸の家は全く崩壊し、命からがら堤防まで逃げた。松の樹が三百五十本ばかり生えてゐたが、見る見るうちに半分くらゐ折れたり倒れたりしてしまった。その松の樹は大抵百年以上も経った大きなものぽかりであったから、折れたものに撃ぢ登って、浪の押し寄せてくるのを目の下に見ながら、大丈夫だらうと思ってゐたが、浪は見る見るうちに、一間半くらゐ高い堤防の上に生えてゐる一丈五尺もある松の樹に登ってゐても、まだ頭を七八尺も越えて行くので、松の樹に登ってゐた老は 一人として助かると思ったもの
はなかったとのことであった。
 松の樹の上で約一時間戦った後、風の方向が変ったので、漸く潮が退き出したさうである。奇路的に、小松さんも妻も子供も一家族五人とも凡てが助かり、船は錨とも完全に残り、どうしたことか、自分と息子の自転車が二台とも浪打際に真直ぐに立ったまま置かれてあったことを発見したと、小松さんは不思議がってゐた。小松さんは平素から人に親切にしてゐたので、その報いがきたのだと喜んでゐた。しかし、十八軒の中三十数人浪に溺れて死んでしまったので、同じトタンの下に寝てゐる者の中に、火葬場から持って帰ってきたお骨を五つも抱へてゐる気の毒な漁夫もあった。私はさういふ人を見るにっけても全く気の毒でならなかった。

  船山に登る

 新淀川の堤防から西北を見ると、そこに大きな汽船が海岸に坐礁してゐた。私の弟が勤務してゐた尼ヶ崎市初島附近などでは、大きな三千噸級の汽船が、海岸から六丁も丘の上に吹き上げられて、文字通り船が山に上ってゐた。それを曳き下すには、運河を六丁ばかり掘って、汽船を水に浮かさなければならない。何でも、さうするためには、約七万円くらゐかかるだらうとのことであった。
 武庫川尻の住宅地はほとんど全滅で、見る影もないほどの気の毒な状態であった。阪神電車の浜川には、海岸から流れてきた生活用具が、幾百幾千となく、十日間くらゐ引懸ってゐた。そして、何十町歩といふ広い川野が、潮水のために真紅になって、稲が実ってもゐないのに、十一月の収穫を待つやうな色彩を見せてゐた。何でも、あまり被害が大きいのと、そのあたりが別荘地なので、地主たちは、それが新聞に喧伝せられると地価が下ることを恐れて、被害をあまり新聞に報告させないといふことであった。
 桜島の海岸に出ると、そこらにあった家も、浸水して押し流されたものが少くはなかった。天保山の波船場に出ると、大きな三本マストの帆船が沈没して、ガソリン・ボートの渡航船が、それに引懸りはしないかと思はれるほどで、真直ぐに帆柱だけ出して沈んでゐた。
 築港桟橋に出てみた。ここでも全く驚いた。昔、ここに数干噸の船が横着けになった時の面影はなく、桟橋の根附はでんぐり返り、その傍に瑞鳳丸が海の方に傾いて乗り上げてゐた。嘘か真実か知らないが――これは人から聞いた話なので――この附近にあった肥料の食庫は、約二千噸の在庫品を入れたまま、浪と風に押し流されて、約三十間ばかり陸の方へずってゐるさうである。私はそれがどの倉庫かと捜してみたが、見当らなかった。

  三宝村の全滅

 大和川尻の三宝村は一層悲惨であった。これは、三宝村から辛うじて逃げ出してきた私の友人、大阪愛染園園長富目象吉氏に聞いたことであるから、間違ひないことである。
 九月二十一日の朝八時頃、隣の中根さんの家の子供が、富田氏の息子と一緒に、学校へ行かうと誘ひに来てゐた。その瞬間忽ち水が表通りに一杯になった。そこは海岸から十数丁も離れた処であるので、富田氏はすぐ津浪だと感づいた。それで、早速妻子と隣の嬢ちゃんと女中の四人に、一々流れてきた大きな板を持たせて、奥地へ逃がすことに決心した。しかし、僅か一分間くらゐ後に、もう表の水は背がただなくなるほど高くなったので、一緒に出た妻子の姿をすぐ見失ってしまった。富田氏は、裏の深い堀を泳ぎ渡って。二階建の窓から二階へ避難したが、そこも危険とみたので、女と子供ばかりのその家庭に、板を持って逃げることを勤めた。しかし彼等は、子供が小さいからといって、逃げることを肯じなかった。それで富田氏は、すぐまた濁水の中に飛び込んだ。そして、大和川の堤防まで浪に押されながら、辛うじて泳ぎ著いた。
 しかし、丸裸なので、大阪市内に這入ることも出来ず、そこに流れてきた箪笥の中から女の長襦袢一枚を引き出して、それを着たまま、妻子がどのあたりに漂流してゐるかを堤防の上から見てゐたさうである。しかし、いくら待っても妻子はやって来ない。それで彼はもう妻子が全く溺れて死んでしまったことと思ひ込んだ。彼は流れてきた溺死体を一々調べて、これが自分の妻ではないか。あれが我子ではないかと、何時間も見てゐたさうである。
 話変って、富田夫人は夫に別れた後数時間浪にもまれて、断ち切れた電線の下を潜りながら、やっと大和川の堤防に逃げてきた。そして、そこに出来てゐた救護船に救ひ上げられて、労働者の着る印袢纏一枚を貰って、午後四時過ぎ大阪天王寺区愛染橋際の石井十次記念保育園まで辿り着いた。すると間もなく、肥料船に乗り移って助かった子供と女中が、愛染園まで帰ってきた。それからすぐ、女の長襦袢を着た富田象吉氏も、保育院に、妻子は死んだことと思って帰ってきた。しかし、彼よりも妻子の方が早く帰ってゐるのを見て、狂喜したといふことであった。
 しかし気の毒なのは三宝村の住民で、三百五十戸の中、残った家は僅かの農家と、最近建った家の極く僅かの部分で、他の八九割は全部木端微塵になってしまひ、どの木材が自分の家のものか全く見当がつかないほど、他の建築物の材料とごっちゃになって。阪堺電車の線路まで流れ着いてゐたといふことであった。そこでは、死亡者約三百五十人で、富田氏の隣の中根夫妻は勿論、裏の堀を越えて一度泳ぎ著いた一家族六人も、全滅したといふことを私は聞いた。

  西大阪は嘆く

 四貫島方面では、日本染料会社の浸水のために、約一万五千人の住宅地が、全部藍色に染まってしまった。染料が水に浸った箪笥まで浸み込んでしまったので、せっかく水がひいても、罹災者は着る着物一枚無いといふ悲喜劇が行はれた。それになほ気の毒なのは、正宗土地会社が、四貫島を地上げしない前から、借家を借りて住んでゐた人々の家は、河の脇にあって、満潮時分は、水面より床が低い処にあった。堤防が欠損したために、勿論これらの家も水浸りになったが、水が引いて、四貫鳥方面の水がそこから河に流れ出した時、染料の水がそれらの家を総て染めてしまひ、九月二十六日頃まで、染料を溶かした壷の中に、これ等の家がわざわざ漬けられたやうな形になってゐた。そのために、彼等は、家々に再び帰る勇気もなく。恩貴島小学校に収容せられたまま、机の上で夜具もなしに数日を送った。辛うじて、『大阪朝日』、『大阪毎日』の親切によって、毛布や蒲団が廻ったが、それも十日目に蒲団は五家族に一枚、毛布は一家族に二枚くらゐの比例で給せられた程度であった。
 あまり長く着のみ着のままで小学校の机の上に寝たものだから、大抵のものは一通り風邪をひいてしまった。それに茶碗を持ってゐるものが少かった。一戸あたり二箇くらゐしかない家庭もあった。
 十月一日に、彼等はもう辛抱しきれなくなって、河岸に流れついた流木を拾って、バラックを建ててしまほうと決心した。それを警察では許さなかった。大阪市に泣きついたが、大阪市バラックの必要を認めないと考へたらしい。なほ十日間待てと彼等に云った。そこで私は、その方面の代表者と三人で、大阪府の当局にあたってみた。府当局はバラックを建てる意志を持ってゐた。その足でわれらは更に市庁に廻ったが、市社会部は取り合ってくれなかった。
 私は『大阪朝日新聞社』社会事業部の浜田光雄氏を通して、市の意向をきいて貰った。ところが、市は内務省の意向だと云ってゐると教へてくれた。で、私は内務省社会局に当ってみた。すると内務省社会局では、そんな指令を出した覚えはないとのことであった。私は思ひあたることがあった。大阪市の社会事業の執務方針が罹災者救護にまであらはれてゐるのであった。

  経済的不経済

 今日まで大阪市は、社会事業にあまり金のかからぬことをもって誇りとしてゐる処である。無料宿泊所を見てもよくわかる。大阪市今宮の無料宿泊所は、最初土間の上に蓆を敷いただけであった。後に板の台を作り、土間より少しましになった。しかし今でも被擁護者が固著しないやうに、出来るだけ粗末な設備がせられてゐる。この精神がこの度の罹災者救助にも現れてゐる。つまり、出来るだけ罹災者に依頼心を起させないやうな方針をとってゐる。そのため、テントに雨が洩らうと、机の上に十日間寝ようと。市は幾百万円の寄附金を受け取ってゐながら知らぬ顔の半兵衛をきめこんでゐる。おそらく、市は最も経済的に救護事業をやってのけた後、幾百万円か残して、この前、堂島の大火の時、弘済会をつくったやうな調子で、こんども、市の経常費から出すべきものを、他人の寄附金で賄ふことであらう。罹災者こそ迷惑な次第である。
 大阪市の当局者の一人は、罹災者の一人にこんなことを云った。
「君は、住友の職工ぢゃないか。会社の共済組合からなぜ金を貰はんのだ?」
 すると職工は悲しげに答へた。
「日給一円四十銭や一円五十銭貰って、子供を四人も抱へてゐれば、会社にゐたところで決して楽ではないのです。それに、会社も大きな損害で、動力も止まってゐるんです。三ヶ月の間だけ、バラックに居らせて下さい。それより以上は決してお願ひしません」
「考へておく」
 市の当事者はさう云ったきりで、つき離してしまった。この当事者は、失業救済についても、同じ意見を持ってゐる人で、「失業者に自殺する者なんか一人もないから、失業保険なんか絶対に要らない」と。私に言明したことがあった。新聞を見ると翌日大阪市のまん中で失業者が縊死してゐた。
 市の当局者がこれであるから、こんどの罹災事業が人間味豊かに運ばれる道理がない。或る場所の罹災者は相変らず古トタンの下に蹲り、雨の日は合羽を蒲団の上に置いて寝なければならぬといふ状態であった。もし、大阪市の当事者がもう少し罹災民を思ふ心が多ければ、東京市民は、災厄の後、漸く二週間目に募金運動をするやうなヘマなことはしてゐなかったらう。あまりに救護費を出し渋るケチな考へが、こんな時に禍ひして、義金を惜しみもなく放り出した同情者の志にどれだけ背いたかしれないと私は思ふ。
 大阪の当事者は、バラックの後片附が大変だと心配してゐるらしかった。しかし、町会が責任を持つからやらしてくれと懇願した。それをすげなく追ひ返す勇気のある当事者こそ、税金を出して養ふには、あまりに官僚的な存在だと私は思った。
 函館の火災は数万の罹災者を出した。この時にも。バラックに固著せられては困るといふ理由で、六十坪の広さに仕切一つないバラックを幾十も作り、出来るだけ居辛くして、バラック民を早く追ひたてることに当局者は苦心してゐた。私はそれを見た時、「まあ何といふ情ないことであらう、彼等は、雨露だけを凌がせさへすれば、児童の心理など無視してのよいと思ってゐるのか」と憤慨した。そして、こんどもまた、大阪の当局は、この同じバラックの問題で躓いてゐる。彼等は罹災者を救ふ前から、如何に早く罹災者を追ひ立てればよいかを考へてゐる。あまりに冷酷なその態度に、私は悲しくなった。
 社会事業は、あまり冷酷な態度をとり過ぎると、かへって不経済に終るものである。仕切のないバラックは不良少年を生み、地べたの上に寝かされるルンペンは叛逆心を生む。ただその時だけ早く追ひ立てればよいといふ気持が、大局に於いて経済的であり得る社会事業を、却って不経済に終らせてゐるのではないかと、私は考へさせられた。もしも大阪市がほんとに経済的社会事業をやりたければ、協同組合を基礎にする社会事業を、うんとやればいいではないか。その勇気も持ち合せなくて。ただ最少限度の罹災救助費を誇るやうなことでは、二百五十万の市民を持つ大阪市としては、あまりにも時代離れがしてゐる。徳川時代の社会事業ならいざ知らず、いくらルンペンだからといって、今なほ地べたの上に寝さすやうな無料宿泊所は、人間と豚とを混同してゐるのではあるまいか。

  物質に対する新しい考へ方

 私は言葉を持たない。私が今感じてゐる宇宙の不思議を表白するには、たうてい私の言葉は足りない。
 私は感ずる――私自身が不思議な存在であることを。それは私が意識する存在であることの不思議である。障子に硝子が切り込んであると同じやうに、意識を通して、内と外とが同時に見える。過ぎ去った過去と、まだ来ない未来が、意識を隔てて窺ひ知られる。客観の世界が主観に吸収され、主観の世界が客観の世界に通告出来る。意識の世界に於いては、実在はまことに不思議な形をとる。そこには物があるだけではなく。法則も実在であれば、目的も実在である。選択も実在なれば、変化性も生長性も実在である。
 存在の哲学から見れば、物質の如きも、法則や目的と同一に取扱はるべき実在であると考へてよからう。
 かう考へると、目的が実現性を持つ実在である如く、物質も実現性を持つ実在であると云ってよからう。実際、物質は実現せられたものである。それは不思議な意味をもって、われわれに物語る言葉であると考へてよからう。悟り得ないけれども、すべての物質は、神秘な世界から、われわれに物語る言葉である。