黎明29 魂の芸術

  魂の芸術

  国家の存亡と国民精神

 一八七一年、独逸がフランスと戦争して勝った時、独逸は奢って国全体に贅沢な気風が漲ったことがあった。その時、ワンダーフォーゲルといふ、渡鳥とでも読すべき、質実剛健なる風を尊び、自然に帰ることを主張した青年男女の団体が生れて、衣食住はもちろん、すべて質素にすべきことを宣伝して、戦捷気分を一時抑へた。
 その次に起った世界大戦で独逸が負けるや否や、この剛健なる精神は更に深刻味を加へて、汽車は四等で藁蒲団もなく、板だけのものになり、学生は苦学して大学に行くといふやうに、国全体に元気をそそった。かくして目醒めた独逸の青年男女は、質実剛健な気風を作って国を導いた。これは全く精神力による。
 日本人は維新当時の元気もなく、少し気抜けしてゐる。戦争でもあれば元気が復活するであらうが、平和な時代が続くと、腰をひっからげてやらうといふ元気がぬけてしまふ。ジョン・ラスキンはいった。「時によると、戦争をやってでもいいから、元気を出さう。ギリシヤが興ったのは戦争によってであった。戦争がなければ、国民に元気が起って来ない。だから戦争によって元気を返せる」と。しかし、これは一面の真理である。質実剛健の気が衰へたときに、戦争によってでも振ひたたす方がいいとは、昔からよくいはれたことである。
 日本人は、寒い処で戦ふ適応性を欠いてゐる。零下何度といふ処でも、温かい処にゐるのと同じ生活をして、寒さに震へてゐる。満洲などへ行っても、支那人は一日十三銭で、大きな豆粕を四枚も五枚もかついでゐるが、日本人は理窟ばかりいって。発展する勇猛心を欠いてゐる。大正七八年の好景気の夢が、国民精神に浸潤して、しっかりやらうといふ精神がない。藤田東湖はこれを精気といったが、士気といってもよく、最近ではモラルといってゐる。丁度噴水の力のやうなものであるが、日本人にはこの元気がぬけてゐる。わが国の震災の傷手は、経済的に考へてもさう大したものでなく、僅かに百十億円であった。然るに独逸は戦争によって千五百億円の損害をうけ、僅か二億円をアメリカから貰っただけであるのに、マークの相場がどんどん上った。日本は独逸の十分の一も失ってゐないのに、独逸に比べて元気がない。国家の存亡は。政治とか経済によるのでなく、国家全体の元気による。その元気を欠いてゐるならば、日本は恐ろしい運命に陥る。

  生活に対する製作的態度

 しかし、われわれは或る心理的の元気によって外界の境遇に打ち勝って行ける。それか精気であり、士気である。印度のガンヂーはSoul forceといった。このSoul forceをわれわれは持だなければならぬ。この力を持ちさへすれば、惰弱に流れようとするあらゆるものを打ち貫いて、前に進む勇気が出る。これを如何に用ひるかといふことを、私は魂の芸術といってゐる。
 日露戦争以後、日本人は麦を食べなくなった。それまでは人口の六割まで麦を食べてゐたのであるが、四五年前から麦を食べないで、食糧が足りないといってゐる。大体日本人は、一年に一人一石あれば足りるのであるが、今までに米が余ったといふことは四回しかなかった。最近になって、日本の食糧問題は益々窮してきたが、第一白米でなければ食べないといふのは、国民全体が贅沢だからである。米を食べる習慣がついて、自分の家で麦をパンにして食べるとか、支那のやうに高梁をポイにして食べるとかいふ工夫をしない。そして日本は、世界で一番物価が高い国になった。
 着物や住宅についても同じ事がいへる。日本ほど住宅費の高い、着物の値段の高い国を知らない。満洲では、煉瓦造りの家が日本の木造建築と同じくらゐの価格で出来る。ところが。日本では東京の本所深川あたりへ行っても、畳一畳が二円五十銭もする。三年前、ロンドンでは、物価の高い時であったが、部屋が十七あって、月百
円で貸してくれた。ロンドンでは住宅のためなら地価を上げないことになってゐる。また建築材料に対しても、政府は便宜を計ってゐる。だから月に一ポンド出せば、大きな家が借りられ、四円も出せば十畳二問くらゐある家が借りられる。
 日本の婦人は着物を着るのに、六、七本の紐を胸と腰のあたりに巻きつける。そして、走れば、きものの美術的な処が崩れてくる。もう少しこれに対する発見はないだらうか? 私はそこに、生活に対する創作的態度が必要であると思ふ。小説だけが創作ではない。彫刻や絵だけが創作ではない。生活全体に対して創作的でなければならぬ。人がああいふ着物を着てゐるから、自分も着ようといふのは模倣である。

  魂の創作と簡潔美

 一体に日本人は、簡潔で美しいものを好む。「古池や蛙飛び込む水の音」といふ俳句など、外国人には理解出来ない。私は、日本の美しさはそこにあると思ふ。実に簡潔で要を得てゐる。桃山時代の婀娜っぽいものであっても、アメリカ式のものとはちがふ。日本の精神は、農家の藁葺屋根に現れ、茶道に現れ、生花の上にあらはれ、着物の上に、或は床の間の上に、あらゆる方面に現れてゐる。これは美の奥義である。キリスト教のゴチック建築がやはりさうである。余計な部分を省くところに、深い印象があると思ふ。きたない芥箱の中にも、美しい蜜柑の皮がはひってゐる。蜜柑の皮だけを引張り出せば美しいものである。今和次郎氏は、中産階級の婦人の箪笥の中には、何年か前に流行った櫛ピン、指輪、ブローチなど、今必要でない品物が貯へられてゐるといった。つまり、中産階級の箪笥とは、要らないものを入れておく一種の塵箱である。さういったものを省いて、簡潔で要を得たものを作りたい。即ち生命の芸術を工夫したい。それには余計なものを省く大胆な態度が必要である。

  二百デナリの香油と緋色のマント

 かつて、マグダラのマリアが、キリストの足に二百デナリの香水を塗った時に、弟子はそれを贅沢だといって馬鹿にした。キリストはそのことを弁護して、私の葬式のためだといはれた。エリザベス女王の小姓サー・ウォター・ラレーといふ人が、女王と一緒に歩いてゐた時、水溜りがあったので、小姓は直に自分の緋色のマントを脱いで、その水溜りの上に敷いた。女王はにこにこ笑ひながらその上を通られたといふ。後にその小姓は、アメリカ全体の総督にせられたといふことである。
 われわれは、美といふものに対する憧れを持つ必要はない。さうかといって、わざわざ爺臭い風をする必要もないが、やるなら思ひきりやって欲しい。かうすれば人が非難するだらう、などと心配しないで持ち込む者は持ちこみ、棄てるものは棄て、使ふ時には二百円くらゐの香水を使ふ。そして創作的態度をもって、やる時にはうんとやるといふやうにしたい。国のために凡てを棄てるといふやり方は、戦争の時でなくとも、平常から心掛けてゐなければならない。たとへ金持であっても、精気を前方に進めて行かなくては、国民の士気は上らない。紙凧は微風には上らないが、強風に上る。文化もそれと同じである。

  道徳的士気と内部的工夫

 徳富蘇峰氏は、「日本人は朝鮮人支那人に比べて元気がある」といたれたが、朝鮮人は少し儲けると、煙草ばかり飲んでぢっとしてゐる。支那人は長い爪をはやして、その先に金の莢(さや)をはめるが、これは金持の証拠にするためである。彼等は纏足してゐる。孫逸仙の時代には纏足することも止ってゐたが、この風習は全くぬけきらない。阿片をすら公営にしようとしてゐるくらゐで、全く道徳的士気が衰へてゐる。日本の場合でもさうである。大正七年に巻煙草の生産高が七倍になった。淀橋の専売局では、二百名くらゐのものが巻煙草の箱詰をしてゐる。これが一年間に七倍も増進した時、間に合はないからといって、一日に何万本と入れる訓練をした。また遊廓に遊びに行く延人員が、大正六年に千六百万人、大正九年に二千七百万人、三年間に六割方増してゐる。これを見ても日本人は道徳的規則を欠いてゐる。魂の工夫を欠き、士気を欠いてゐる。最近日本人の犯罪傾向がひどくなった。大正五年頃から多少減ってきたやうに見えるのは、執行猶予を多くした結果である。しかし、殺人、放火、強盗などは、不景気のため十年間の後戻りをした。日本には衰頽の徴がみえる。もっと宗教的になり、余計なものを省き、外側のことを考へないで、内側に注意を注ぎ、「やる!」といふ勇気を出さなければならない。

  魂の落著きと信仰

 第一に、独居の練習をしたい。独房に入れられると、淋しいので発狂する人があるが、神と共にゐるといふ考へになれば少しも淋しくない。私は肺病を患った時。一漁村で一人きりで生活してゐたが、案外淋しがらなかった。私はまた、アメリカのユタの沙漠にゐた時、あまり長いこと話をしなかったので、話がしたくてたまらなくなり、自分で自分に話しかけたことがあった。淋しいと思へば淋しいが、慰めもあった。
 われわれはまた大胆になる修養を積まなければならない。心をゆるし合った仲であっても、やはり自分は自分である。自分のうちに神がゐるといふことを信じなければ、病気になった場合淋しいものである。一人でこの世を去って行くときも、動じない沈勇の練習をしたい。沈勇は魂の芸術である。内側の工夫は人に見えるものではないから、自分一人で気をつけなければならない。
 神戸の或る金持の人が病気で死んだ時、医者はいった。「この人は死ぬ筈ぢゃなかった。呼吸と動悸は、大抵平衡してゐるものなのに、この人は呼吸が遅くなって、動悸が速い。この人は何か心配事で死んだ」と。その人は心配が無くなるなら、胸の動悸もをさまって。死なずにすんだかも知れない。魂の工夫が出来て居り、神に頼る信仰があれば、その人は生きることが出来たのである。この神による落著きがありさへすれば、病気は必ず治るものである。
 私は疲れない工夫を知ってゐる。私は全国の宗教運動をずっと続けてゐるために、夜などあまり寝ないのであるが、落署く工夫を知ってゐて心配しないから、いつも元気である。気合がさうである。
「えいツー」といふ懸声で、相手の肚がきまってゐるか、ゐないかがわかる。創道四段くらゐになると、ほんとの剣で試合をするのであるが、気合をかける声の強さで段をつけるさうである。つまり、魂を集中してやってゐるか、どうかを見るのである。
 魂の工夫ができてゐる者は、どんな時にも静かに考へることができる。この工夫を知ってゐる者には、眠らなくとも眠ったと同じ作用がある。身体をぢっとさせてゐるとか、性問題に煩悶しなければ、落著いた気持になれる。

  透明なる魂

 人に気づかれなくとも、自分の魂を整理して行く。それが魂の芸術である。生花や絵に力を注ぐばかりが芸術ではない。魂の御殿で神を礼拝することが、最も大きな芸術である。瞑想の工夫といはうか、静座の工夫といはうか、兎に角、われわれの魂が静かにしてゐるか、魂が透明であるか、人に見られた場合に恥しくないか、人ばかりでなく、神に見られた時に恥しくないかを考へてみなければならぬ。たとひ一人の時でも、いつも怠けず、先駆者として立つ覚悟がなければならない。さういふ人が多ければ多いほど、国民の精気が高まると思ふ。
 であるから、われわれはまづ、自分の魂の押入を掃除することから練習しなければならぬ。外側だけ綺麗にしておけば、魂の奥でどんな淫猥なことを考へてもかまはないといふやうでは実に恥しい。魂は透明にならなければならない。そこから国民の元気が出てくる。われわれには徹底した魂の透明性が欠けてゐる。
レ・ミゼラブル』のやうな立派な創作は、透明な魂の持主でなければ書けない。ミリエル僧正の如き美しい清い魂こそ、魂の芸術といひたい。うるはしい魂の持主は、大罪人をも悔い改めさせる。画布の上の芸術ばかりでは国は亡びる。深い内省のある、俳句の気持をもつ人であれば、外側はどうあってもいい。われわれは独逸民族の質実剛健な気持を学びたい。イエスのやうに、カルヴァリ山の十字架上で人の軽蔑と悪口とを身に浴びて、遂には殺されるやうな場合にも、決して慌てない落着いた魂をもちたいものである。