黎明30 徳富蘆花氏の思ひ出

  徳富蘆花氏の思ひ出

   一
 私は粕谷の櫟林が好きであった。上高井戸の停留場から、村の広い道を行くとさうも感じないが、松沢村から八幡山を通り抜けて粕谷の鎮守に差しかかると、武蔵野でなければ感ぜられない美しい印象を受けるのが常であった。セピア色の肌の細かな土、ものさびた鎮守の鳥居、繊細な雑木林の線、四季を通じて柔かな感じを与へる森の色彩、澄み切った美しい小溝の流れ、それは関西の何処にも発見せられない本当に柔かな感覚を与へてくれる。一体に関西の森は蔦と茨が多くて、森の中にもなかなか這入れないが、武蔵野の雑木
林は無造作に潜り込むことが出来るものだから、栗を拾ふにしても柿を取るにしても、勝手な事が出来る。それだけでも武蔵野の森は私たちにとって面白いのに、武蔵野では、欅でも、椋でも、樫でも、すぐ大きくなる。関西では一抱へもあるやうな樫の木を見ることは珍しいが、武蔵野ではそれが到る処にある。
 蘆花氏の棲んでゐた家は。粕谷の高台の上にあった。東から近づくと、美しい鎮守の鳥居の前を通って、上高井戸から来る大きな道と一つになって、蘆花式の高く葺いた萱屋根の母屋の前に導かれて行くが、南から行くと、青山街道から五六丁北に這入ってなだらかな丘に登る狭い道を伝って蘆花氏の家の柴折戸の前に導かれる。一等美しいのは、東からのアプローチで、南側から来ると非常に野趣があるが、すぐ蘆花氏の屋敷の前に出るので、何だか森に深みがないやうに考へられて、美しく感じない。
 尾敷はあまり広くはなかった。それでも都会の家に比べると、あれで随分広い方であらう。大ざっぱな人であっただけに、家の手入れなどは少しもしなかったものと見えて、人の棲み得る裏の離れなどは古いがらくた道具で一杯になってゐた。蘆花さんは広い処に狭く棲む人であると私は感じたことであった。私などは狭い家に十四五年も棲んで来たものだから、蘆花さんの家などは不便に考へられて、同情したくらゐであった。何時も棲んでゐた家は丁字形になってゐた。それを長い廊下でつないでゐた。私が一等好きなのは、その長い廊下であった。廊下は田舎の禅寺によくあるやうな極く粗末なもので、その片側は、多くの書物で一杯になってゐた。つまり、この廊下は。蘆花氏にとっては唯一の宝庫であり、世界であり。脳細胞の排列せられた処であったのである。内側を白く塗って、処々に窓がつけてあった。何だか床しくて、蘆花氏その人を表徴するやうな印象を与へた。
 私は実際この廊下を通ることが一番好きであった。フローレンスのデ・メデチの廊下は、一哩半も続いた長いものであるが、その両側にはフローレンスそのものの上に生きた数干の著名な人物の肖像画がかかってゐる。それは私が世界中で見た廊下のうちで最も神秘的なものである。
 蘆花氏の住宅の三つの家を繋ぐ幅広い粗末な廊下は、蘆花氏に取っては、このフローレンスのデ・メデチの廊下でもあったらう。丁字形の上の両端にある家は母屋と書斎で、中央の端にあったものが、先づ応接間といったところであらう。三軒とも武蔵野の大きな旧家に比べると極く粗末なもので、別に美しいものではなかった。大体に於いて。武蔵野の旧家といふものは箆棒に大きな家で、私が長く住んでゐた松沢村の鈴木一族の家の如きは、何でも足利時代から続いてゐるさうであるが、実に美事なものであった。蘆花氏は、その貧弱な小さい家にあまり手入れせずに棲んでゐた。
 日本の藁小屋は手入れをせぬと馬鹿に穢くなるもので、多少禅味を発揮して、拭き掃除しないとひどいものになる。蘆花氏は、あまり家のことなどは構はなかったと見えて、部屋の中まで、自然の空気を浸み込ませてはゐなかった。また何だか西洋流の生活振りと東洋流の生活振りとが一致しない処にゐるやうに私にはうけ取られた。
『みみずのたはこと』や『新春』の終りの方では輝かしい自然生活が、溌刺として描かれてゐるが、蘆花氏は日常の本能生活さへ自然化しようとはしなかったらしい。そこにまだ武蔵野にそぐはない或るものが残ってゐた。それはおそらく自分で鋸をとったり、自分で鉋をかけたり、釘を打たなかった関係でもあらう。それであるから、自然生活を楽しんだ割合に、生活そのものは自然的生涯の部分が比較的少く見えた。そこになると、アメリカのジョン・バアローや、フランスのジャン・アンリー・ファブル翁などとは多少距離があったやうである。
 その人の生活振りを見ると、脳髄の動き方がよく解るものである。巣を見ると烏の精神状態が解り、穴を見ると獣の習性が解るやうに、著作者の部屋に這入ると、その人の習性がよく解る。蘆花氏の部屋に這入って、あの美しい自然詩人の面影をうかがふことはまことに困難である。彼の書斎は、西洋と東洋との間に立ってゐる。富士でいふならば、胸突八丁にさしかかってゐる人の書斎であった。まだ頂上を究めないところに、蘆花氏その人の本領があったのであった。
 彼は永遠に胸突八丁に棲んでゐた。彼の性格は険しかった。少し手のかけ処が悪いと上から大きな石がころがり落ちて来た。それは彼が噴火山性の激烈な詩人的性格を持たされてゐた為であったらうけれども、一つは彼が真剣な為であった。それで、蘆花氏に近づく人たちは何時もよく注意せねばならなかった。弟の性格をよく知ってゐるあの聡明な蘇峰氏は、敢てその胸突八丁に近づかうとしなかった。それだけよく人間の心理を知ってゐた。
 私も、この胸突八丁を知ってゐたから、何時も近づくのに梯子を準備して行った。胸八丁にいい梯子は何といっても愛子夫人であった。世界に多くの聡明な賢夫人はあるだらうけれども、あの繊細な感情の持主である、胸突八丁の天才――噴火山的性格の持主である蘆花氏をして彼の落ちつくべき処に落ちつかしめた女性こそは、さう世界に多く類のある女性ではない。愛子夫人は体こそ小さいけれども、実に聡明な、叡智の結晶であるやうに私には見えた。蘆花氏は本当に愛子夫人を愛してゐた。あれだけ年寄って、あれほど露骨に夫人に対する愛を私の前に物語った人は多く無い。実際私は蘆花氏ほど幸福な人はないと度々思った。そして二人が永遠に若いのに私は何時も驚いてゐた。愛子夫人は本当に剣ヶ峰にかけられた梯子であった。
 私は、蘆花氏に話をする時に何時も言葉をよく注意して使はねばならなかった。詩人であるだけに、ちよっとした事がすぐ感情にさはることを私は感じた。併し彼は本当に深切な人であった。彼は人を愛したくてたまらなかったやうであった。「子が欲しくたまらないよ」と度々私に云った。それで私を何時も羨んだ。そして私を子供のやうに愛しようと努力した。涙を流して私を抱擁してくれた。私も亦手を握って彼と共に祈った。西瓜時分にはたらふく西瓜を御馳走するし、栗のある時には自から裏の栗林に這入って私たちの為に栗を一升も二升も拾って来てくれた。
「蘆花さんの裏には栗が地べたの上に落ちて腐りかかってるよ。拾ひに行かうぢゃないか」
 さういって、松沢の私の小屋に棲んでゐた青年たちは、十七八丁もあるところを、寵を持って蘆花さんの家の裏まで栗を拾ひに行ったこともあった。
 第二の聖地旅行から帰って来て、瀧花さんは全く耕作を打っちゃってしまった風だった。畑は荒れるに委されてゐた。あまり荒れてゐて弓場を探すにも骨が折れるくらゐであった。しかし蘆花さんは敢てそれを小作に出す元気も無かったやうだった。前庭は頗る広かった。寝室の前庭には朝鮮芝が植ゑられてゐて、私の為に屡々そこへ食卓を持ち出して御馳走してくれた。しかし私は寝室の前の植込みよりか、とっつきの母屋の前の雑草園が好きであった。蘆花さんが自分の庭の植物の雁史に就いて詳しいのには、本当に驚くくらゐであった。『聖地順礼』の中にもパレスチナの植物のことがスケッチ体に美しく描かれてゐる。蘆花さんはその程度に於いて庭の植物の一つ一つに就いて美しい言葉で私に物語ってくれた。
 私は、日本の田園文学のうちで、『みみずのたはこと』の如きは、最も傑出したものの一つだと思ってゐるが、蘆花氏の自然は深い瞑想と凝視を
持ってゐた。蘆花氏は純粋のトルストイアンであった。初めは多少トルストイに模倣するところもあったであらう。しかし終り頃には、ユニークな、そして純粋な自然詩人徳常蘆花が出来上ってゐた。
 実を云ふと、私は『不如帰』があんまり好きではない。私はあまり有名であるから読んだものの、作品に出てゐる主人公は、私たちの生活や境遇よりあまりかけ離れた人物でもある為か、共鳴する点が非常に少かった。「華族の坊ちやんや嬢ちゃんがどんなに煩悶したところで、それは御勝手だ」といったやうな感じで私はそれを読んだ。私はあまりに大衆が喧しく云ふから、群衆心理の研究の為に読んだのであって、読んだ後で、それは浪子と武男の恋愛のプロセスの上に日清戦争時代の棋型的な描写かおるからだと気づいた。
 つまり『不如帰』の時代の人々は、個性の煩悶や内部的性格の進展に就いては、さう深く考へてはゐなかったので、恋愛といふものの受くべき迫害とその奇妙な運命に就いて。ロミオとジュリエットの場合以上のものを予期してはゐなかったのだ。私たちのやうに、もう少し哲学的に考へる悪いくせのある人間には、『不如帰』は詰らなかった。しかしつまらなく書いたところに、蘆花さんの傑いところがあったのかも知れない。あまり下手に哲学臭く書いて、群衆心理をつかみ得ない拙い作品のある中に、蘆花さんは。日清戦争時代の大衆をよく理解して、「少しく哲学的に、多く感傷的に」書き上げた。そこに蘆花さんの手際があったとも云へよう。
 しかし、若しも『不如帰』のうちに美しい処があるとすれば、やはり自然詩人としての若い蘆花さんの気持である。逗子の浪きり不動や、伊香保の美しい松林が、あの若い血を吐くやうな日清戦争時代の束髪美人の浪子さんと相並んで、初めて日本の自然に人間的交渉を持つやうにしてくれたことは、何と云っても蘆花さんの一大勲功でなければならない。
「美しい自然の中では恋がしたいものである」モーパッサンは、そんな意味のことを或る短篇小説に書いてゐる。蘆花さんは、日本の美しい自然と美しい恋愛をごっちゃにして、若い青年の胸の中にはふり込んでくれた。そこに彼の尊さがあった。
 淡い自然と馬鹿に美しい恋愛との諧調が蘆花さんの使命であったらう。蘆花さんの自然は友禅染めである。島崎藤村氏の自然はより東洋的であり、より芭蕉的である。それでも、『若菜集』などを見てみると、『不如帰』の著者と全く同じ感情のあふれてゐることに気がつく。おそらく、あの時代の日本の青年は、英国の詩人でいへばセレーやバイロンの持ってゐたやうな情熱で日本の自然を見ようとしたものらしい。若々しくて、感傷的で、今日から考へると、実に単純で気持がいい。恋愛もあんな時代の恋愛が純真でいい。今時のやうに。ダダイズムで恋愛したり、キュービズムの恋愛だとか。マルクス派的恋愛などいひ出すと、むづかしくて仕方がない。『若菜集』や『不如帰』は実際、日本の恋愛史の黄金時代であったのだ。蘆花さんは、この恋愛の黄金時代に、最も幸福な作品を世に送り出した。そして一躍日本の文豪となってしまった。
   二
 私は幼い時から社会主義の理論が好きであった。一つはトルストイの感化にもよるであらうが、社会主義の中に秘められた人道主義がイエスの教へた高い道徳と一致してゐた為でもあらう。私は安部磯雄氏の書いた『瑞西』や。堺氏や幸徳氏の書いた論文をむさぼり読んだものであった。それで私は初めから精神主義的傾向を持ってゐたので、唯物社会主義といふ名が嫌ひだった。唯物主義では社会主義になれないやうな気がしてゐた。
 今も同じやうなことを考へてゐる。理想的な社会主義がどうして非精神主義的であり得ようぞと考へてゐる。そんな時に私は木下尚江氏の『良人の自白』を読んだ。泣きながら夜寝ずにあの長い小説を読み通したものであった。そして精神主義的なキリスト教社会主義の一派と、所謂柏木派と称せられた、唯物主義的社会主義派が分裂した後、私は、蘆花さんが木下尚江氏を授けて『新紀元』を出された時に、徳富さんや木下さんの運動に心から共鳴したのであった。その後『新紀元』がつぶれて私は頗るさみしかった。蘆花さんはその後直ぐ本間俊平氏と一緒に『黒潮』といふ新聞体の雑誌を出されたことがあった。確か四号までしかつづかなかったやうに記偕するが、私はあの新聞体の雑誌の出るのをどんなに毎日待ちわびたことであったらう。
 蘆花氏は勿論理論家ではなかった。だから哲学的慰安を彼に発見することはほとんど出来なかった。私は随分理窟っぽい青年で、その頃もうプラトンやカントやへIゲルなどの主な著作を飛び飛びであるけれども英語で読んでゐた。殊にへーゲルだけはその歴史哲学を英語で初めから終りまで読み、へーゲル派のプフライダラー博士の書いた四巻ものの宗教哲学史を英語で読み切ってゐた時であるから、頭が如何にも理窟っぽくなってゐたが、蘆花さんの信仰的な文章には何時も共鳴するのであった。
 私は、蘆花さんが聖地巡礼から帰られて、粕谷の村に引っ込んだ時には非常に退嬰的であると考へた。私は、何時も戦闘的態度をキリスト精神であると考へてゐた為であったが、田園に引き籠って独り楽しむことはキリスト教的でないやうに考へられてならなかった。それで。蘆花さんの粕谷入りをあんまり嬉しいとは思はなかった。社会には、自然にも見捨てられ、職にさへっけない者が沢山あるのに、それ等の人々を見捨てて自然に立て籠ることはあまり我儘であると考へられてならなかった。
 それで私は、『みみずのたはこと』を読んでも、美しくあるとは考へたものの、キリスト的闘争を欠いたものとして、心の底より共鳴することは出来なかった。その後、私は貧民窟に這入ってしまった。そして自然に憧れつつも、自然に見捨てられた長屋の子供たちの兄貴になってしまった。私が再び自然に接近せねばならないやうになったのは、農民運動を始めてから後のことである。今度は自然が恐ろしい姿をもって私に迫って来た。自然にとりまかれてゐる
農民は自然を愛してはゐなかった。私は「如何に自然を愛すべきか」を農民に教へねばならなかった。それで蘆花さんの自然的作品をもう一度読みなほしてみた。そして蘆花さんが完全な自然詩人であることを知って、日本の農民に、もう一度徳富蘆花を読みなほすやうに奨めるやうになった。
 蘆花さんが自然に就いて書いてゐるものはさう多くはない。しかし彼は自然に就いて瞑想し、自然を凝視した。彼はそれを人間ときり離さずに考へてくれた。『みみずのたはこと』に出てゐる不浄の一文の如きは実に深切な瞑想であって、私はあの文章を読んで有難くて泣いたくらゐであった。あれだけでも、蘆花さんは魂の使徒行伝の続きを書いた人であるともいひ得よう。世界の人は蘆花さんをあまり多くは理解してゐない。彼は魂の煩悶の為に後半生はほとんど門を閉ざして外に出なかった。一面からいへば随分我儘である。しかし、私のやうに彼の心理を多少なりとも理解したと思ってゐる者には、彼の煩悶は故の無い煩悶ではなかった。
 彼は高く昇らんが為に煩悶した。そして、彼はその煩悶を匡(ただ)す唯一の工夫として『自然の途』を選んだ。彼は狭い柴折戸の奥に住んで、世界でも最も美しい平原の一つである武蔵野の美を胸の奥まで吸ひ込んだ。私は彼に戦闘的精神の欠けてゐたことをとがめまい。私は寧ろ悩める魂にとって自然がかくも慰め得る大きな力を持ってゐることを蘆花氏の作品について学ぼう。蘆花氏は永遠に私に物語ってゐてくれる。日本の農民は、自然の環境の内に住んでゐて、自然を見失ひつつある。心の閉ざされた彼等は、自然の懐に住んでゐて、自然を視る眼が無い。私は『みみずのたはこと』を開きながら、日本の村々に於ける自然美を観照する人たちがだんだん無くなって行きつつあることを悲しむ。せめては、『みみずのたはごと』にだけでも耳を貸すだけの余裕を村の人々に与へてやりたいものである。