黎明32 夫婦の苦闘の跡

  夫婦の苦闘の跡

 自分の妻に感謝したことを人の前に話すことは何だか手前味噌であまり面白く思ひませんが、感謝してゐることは嘘ではないのですから、正直にいひませう。
 元来、私は肺病であったので、正式には結婚できる筈もなく、その上、無理をして貧民窟生活を送ってゐたものですから、ほとんど寝るところさへない貧民長屋に嫁いで来てくれるといふ人は、よほど思ひきった女か、冒険好きな女性でなければなりません。生活の安定でもあればいいのですが、入った金はすべて貧しい近所の人に分け与へてゐたものですから、生活は脅され通しでした。勿論学問のある人が私のところに来てくれる道理もないだらうし、それで私も高等教育のある女性と結婚しようとは思ひませんでした。
 私は、自分の小説にも書きましたが、ファースト・ラブの女性もあったのです。しかし私が貧乏なのと、肺病にかかったのとで、先方が煮え切らないものですから、七年以上も文通したりしなかったりして交際を続けてゐたものが、友人の直接の談判で駄目だといふことがわかったのです。それで私は別に女のことも考へず、一生懸命に貧民窟の不良児童の感化事業や病人の保護に没頭してゐました。私は、どん底の悲哀のなかを歩いて、きよい宗教生活の法悦を楽しんでゐました。
 もし私が、貧民窟に事業を続けて行かないとすれば、女の力を借りることも少かったでせうが、淫売婦の仲間に混って、救済事業に努力してゐると性慾生活を全く忘れてゐる私でも、さうした淪落の女を救済するに当って、或るデリケートな点にまで触れてやらなければならない。実際、女にできる仕事で、男にできない仕事はあまりに沢山あります。病人の世話が第一それです。
 そのころの私はおみちといふ全身不随の三十女を私の家で世話してゐました。私は丸山兵吉といふ老人と二人でそのおみちの尿の世話までしなければならなかったのです。丸山兵吉はその後私の家に世話してゐた乞食の女と一絲になって一家を構へました。そして煙管の羅宇すげ換へを商売にしてゐた岸本の老夫婦が、もう目が見えないから世話してくれと頼んで来ました。二人とも胃癌にかかって苦しんでゐたのですが、そればかりではありません。次から次へと肺病の男も来れば、脚気ののも来るし、梅毒の男も来る。尿病の男も這入って来る。それはそれは大変でした。
 大掃除の特には、貧民窟にあまり病人を集めるといって警察から叱られたことがあったほどでした。その頃でした、私が、私と一心同体になってこれらの病人を世話し、隣近所にゐる淫売婦を救済してくれる、最も健康な、意志の強固な婦人の出現を祈ってゐたのは。
 その頃、妻は、神戸の福音印刷会社の女工の取締をしてゐました。私はその工場が妻の叔父によって経営せられてゐることを知りませんでした。私はただその工場が変った工場で、『聖書』の印刷と西洋人向きの活版を沢山扱ってゐることを知ってゐました。そして私は毎月曜日そこへ賛美歌を教へるやうに頼まれて、二十分くらゐ二、三年続けて行きました。しかしそこの女工と親しくしたことは一遍もありませんでした。その女工の中に、妻の顔も見えてゐました。
 妻はそのころ非常に老けて見えて、姐さんらしく製本女工を監督してゐました。ところが、ふとした事から、多分路傍説教の帰りについて来たのが引掛りでせう。しげしげ貧民窟の路地の奥にあるみすぼらしい集会所に来るやうになり、それから一年くらゐ経って、私は妻と結婚することになったのです。
 その頃、妻は頗る肥ってゐて。実に健康でした。それが貧民窟に来て無理な生活を送ったものですから、見る見るうちに痩せてしまひました。そのとき私は、済まないといふ感じがしました。普通の事業と違って、被救済者が総て姑に当るので、何十人と出入りする被救護者は総て姑のやうな口調で私の足らないところを妻にまで持って行くのが普通でした。金でもあればけちにもせずに済んだでせうが、その頃私は夫婦で月給十七円貰ってゐました。
 それでは大勢の人を助けることができないので、キリスト教の女子神学校とラムバス保姆伝習所の二つを教へに行って、両方から十五円宛貰ひ、夫婦の生活を一ヶ月約一人前五円と定め、絶対に菜食主義にして肉を一切食はぬことにしました。妻は私のいふことに頗る従順ですから、肉を食はないといふ約束も、完全な夫婦生活ができないといふ約束も、甘んじて聞いてくれました。実際最初の一年くらゐは、妻があまり従順なので泣けたことも屡々ありました。あまり痩せ方がひどいので妻のために菜食を止めてしまはうかと思ったことも屡々ありました。しかし不思議なもので、菜食してゐる間は下痢するやうなことも少しもありませんでした。
 それから間もなく私は妻を毎朝五時から一時間だけ中等程度の学課について教へることになりました。その仲間もあったのです。今神戸の労働紹介所の所長をしてゐる武内勝君は私の貧民窟の家に泊りこんで、私の個人教授を毎朝五時から受けてゐました。それで私は妻をその組に入れようと思って毎朝代数と算術を教へました。そして晩の六時から八時まで、幾何も、動物学、植物学も教へました。そのうちに姿の妹もこれに参加しました。妻の妹はそれから女学校に入り、吉岡さんの医学校を卒業して。今神戸の診療所を経営してくれてゐます。そして私は二年間ばかりアメリカのプリンストン大学で勉強しようと思って出発し、妻は三年の予定で横浜の共立女子神学校に学ぶことになりました。
 大正七年の春、私はアメリカから帰って来たのですが、妻は約六ヶ月遅れて学校を卒業することになりました。少し留守にした間貧民窟には恐ろしい眼病が流行してゐました。それで妻は私のいひつけ通り、簡単な目薬を持って毎朝貧民窟を廻って、限病にかかってゐる人たちに点眼するのを日課にしました。よくよく注意したのですけれど、たうとう妻も悪性の眼病に伝染しました。そして数回県立病院で手術を受けているうちに、眼球が爆発して、血管が丁度瞳の上に葡萄腫のやうに流れ出して来ました。
 その時、私はほんとに済まないといふ気がしました。幸ひ大阪医大の宮下博士の世話で、僅か四日問でその葡萄腫を切りとることができましたが、そのために妻は一眼を失ってしまひました。その手術を受けた時でも、私は
丁度九州へ伝道旅行に行くことに約束してゐたので、たうとう取消すことができず、妻を大阪医大の三等病室に送り込んでおき、金がないので附添人も附けず、宣伝の旅に立ちました。
 かうした無理な生活を妻はずっと忍んで来てくれました。一番可哀さうだったのは、最初の子供の妊娠中でした。世話した破落戸には苛められるし、つわりには苦しむし、たうとう私は臨時に妻をその当時病んで
ゐた妻の父の家に隠したこともありました。子供が生れてから貧民窟の表側に小さい家を借りて、初めて二階建ての家で子供を育てることにしました。しかし私から金を取らうとする破落戸の脅迫は止まず、妻は随分苦心しました。