黎明33 母の力
母の力
母スザンナ
今から百五十年ほど前に、イギリスの国に、大変えらい宗教家がありました。その人の名をジョン・ウェスレーといひました。ウェスレーのお母さんは、大勢子供を生み、ウェスレーはその十五番目の子供でした。お母さんの名はスザンナ・ウェスレーといひ、一人で一々子供の世話を焼き、子供が大きくなって、社会のために立派な仕事が出来るやうにと、毎口気を配ってゐました。
晩、寝るときなども、大勢の子供を一人一人自分の膝許に呼び寄せて、その日一日、子供が、真直ぐな道を歩いたかどうかを反省させて眠りにつかせたさうであります。果せるかな、ジョン・ウェスレーは、英国を革命暴力から救ふやうな大人物になりました。
その当時、英国の隣のフランスの国では、革命が起って、大勢の人が殺され、ルイ十六世といふ王様と、その王妃のマリア・アントアネットは、議会の決議によって死刑になりました。何でも、革命のために殺された者が五万人もあったといふことであります。そして、革命におびえた人々は、農業さへせずに逃げてしまったので、饑饉で死んだものが三百五十万人もあったといふことでした、その時、スザンナ・ウェスレーに育てられたジョンは、オックスフォード大学を卒業して、英国の隅々を演説して廻り、みんなの人が不道徳を離れて罪悪から遠ざかり、贅沢をしないで貧乏人を可愛がるやうに、宗教の話をして聞かせました。
その結果、英国にはウェスレーの説に賛成するものが五万人も出来ました。そして、その中から黒ん坊の解放運動に熱心に働いたウヰルヴア・フォースとか、貧乏な百姓を助けるために奔走したラヴレスとかいふ人が出て来ました。その結果、英国は革命なくしていい国になったのでした。
ところが、ジョン・ウェスレーの運動が、非常に力強いものになると共に誰ともなしに、ウェスレーもえらいけれども、ウェスレーを生んだお母さんも偉いといひ出しました。今日、英国のロンドンに行ってみると、この偉人ジョン・ウェスレーと、その同志たちの墓が、教会堂の基礎石の上に刻まれてゐます。そして、その教会堂の入口の正面には、このウェスレーを生んだ母スザンナの大きな墓が建てられてあります。それで、教会堂にはひって行く人は、ウェスレーの墓よりか、お母さんの墓を多く見るわけです。
実際、私は、この偉人ウェスレーを生んだお母さんを、ほんとに偉いと思ひます。
リソコルンの継母
今日、アメリカの首府ワシントンに行くと、リソコルン記念館といふ大きな建築物が建ってゐます。それは、丁度、大きな池を越えて、ワシントンの記念塔を見るやうになってゐます。
なぜ、アメリカの人は、こんなにリソコルンを尊敬するのでせうか。それは今から凡そ六十六年ほど前に、アメリカにゐる約八百万の可哀さうな奴隷を解放したからであります。しかし、この偉人リソコルンも、ブースといふ役者に殺されました。それだけ、アメリカの人は、ワシントンを尊敬するくらゐ、今なほリンコルンを尊敬してゐます。
ところが、この偉人のかげに、彼を九つの時から育てた偉い継母のあったことを忘れてはなりません。一体日本では、継母といへば、非常に嫌ひますけれども、リンコルンが偉い人になったのは、全くこの継母の力であったと、リソコルンの伝記を書く人は記してゐます。
その当時、アメリカはまだ開拓が十分出来てゐませんでした。そしてリソコルンのお父さんは、海から何百里と離れた、アメリカのまん中を流れてゐるミシシッピー川のほとりに移住してゐました。そこは、隣へ行くにも、一里も二里も歩かなければならない所でした。そこに。リンコルンのお父さんは、丸木小屋を作って、一生懸命に働いてゐましたが、お母さんはリソコルンが九つの時に死んでしまひました。それでお父さんはまた結婚して、リンコルンの弟や妹が生れたのでした。
ところが、リソコルンは、学校に行きたくとも学校はないし、本が読みたくとも本はないし、ただ。お母さんが持って来られた一冊の『聖書』を一生懸命に読んださうです。リンコルンは一生の間、学校には、僅か六ヶ月しか行かなかったさうです。リンコルンは、ほとんど学校には行かなかったけれども、四里も五里も歩いて、書物を借りに行き、一生懸命に勉強して、たうとうアメリカの大統領になりました。そして、大統領になった後も、その継母を非常に尊敬してゐたといふことでした。
日本などでは、継子は、多くいぢけるものですけれども、いぢけないで、大統領に仕立てたリソコルンの継母は、ずゐぶん偉い人だったと。私は思ひます。
ガーフィールドの母
リンコルンの後継に、ガーフィールドといふ大統領がありました。この人のお母さんも偉い人であったと見えます。ガーフィールドが、大統領の宣誓式をする時に、幼い頃、お母さんから貰った『聖書』を、内懐のポケットから取り出して、男子として最も光栄のある大統領の宣誓を行ったさうです。
ガーフィールドは苦学した人で、或る時は大工になり、或る時は川蒸汽のボーイとなり、ずゐぶん苦心して、小学校の先生やら弁護士やらをして、たうとう大統領になることが出来たのです。けれども、かうした苦学のなかでも、彼は決してお母さんの形見の『聖書』を身体から離さなかったのでした。苦しい時には母のことを思ひ。悲しい時には母の形見の『聖書』を思ひ出しては読み、たうとう大統領まで出世することが出来ました。アメリカの大統領になった人には、貧乏人はあまりありませんが、ガーフィールドは全く先輩のリンコルンと等しく、貧乏のどん底から叩き上げた人でした。そして、こんなに偉い人になったのも、全くお母さんのお蔭でありました。
母の偉大
こんな話をしてゆけば、まだまだ沢山偉いお母さんの話をせねばなりません。しかしさうしても限りがおりませんから、私は、さうした話はしません。ただ、今の日本人が忘れてゐることを、少し話しませう。
日本の多くの人々は、村々に鎮守の神として祀られてゐる八幡宮が、男の神様だと思ってゐますが、あれは間違ひです。八幡宮は、
元来、女の神様を祀ったのです。八幡宮の最初といはれてゐる九州宇佐八幡宮に行くと、正面に祀ってあるのは市杵姫命他二人の女の神様、その左に祀ってあるのが神功皇后、その右に祀ってあるのが応神天皇です。
これは、なぜでせうか? 九州に宗像神社といふ官幣大社があります。日本全国には八干から宗像神社があるさうです。この宗像神社にも、宇佐八幡宮と同じ女神様を祀ってあるのです。つまり、九州の古い神社には、大抵女の神様を祀ってあります。これは大昔、日本に母親を中心とした文明があったことを現してゐるのです。それを母長時代ともいひます。
今日、エジプトの国へ行って、カイロの博物館を見ると、エジプトの王様は、みんな、自分の肖像よりか十倍も十五倍も大きな母親の肖像を、必ず自分の肖像の後へ彫刻してくっつけてゐます。なぜこんなに母親を尊敬して、王様の肖像の十倍も十五倍も大きなものにしたのでせうか。それは今から四千年ほど前には、父親より母親の方をずっと尊敬したからです。財産も、位も、母よりその娘に、娘からその孫娘に譲られたものなのです。おそらく日本の九州に遣ってゐる女神様は、多分、この母親を尊敬する傾向からきたものだと私には考へられます。
実際、国を平和に保ち、善き子供を育てるためには、どうしても母親の世話にならなければなりませぬ。男子は外に出て忙しいですから、子供の世話はみんな母親がします。それで、昔は、母親をとても尊敬したものなのです。今でこそ、母親は父親より地位が低いやうに思はれてゐますけれども、昔はその反対であったのです。 もちろん、私は極端に考へて、母親は父親より偉いといふ必要は少しもないと思ひます。しかし、父親が偉いくらゐ母親も偉いのです。それで、私たちは、あくまで母親を尊敬し、母親を大事にしなければならないと思ひます。