ユズ絞り

 二週間前から、ユズを搾り始めた。60を過ぎた年で初めて知る喜びである。ユズ耕作放棄地ではあるが、許可を得て、ユズ玉を摘み、自ら絞り、金曜市で自ら販売する。すべての工程に関わることの楽しさはやってみなければ分からない。作業場の車庫も車の中も、金曜市でもユズの香りにまみれることは非常な喜びである。
 花卉栽培や果実栽培も楽しいものだと思うが、出荷してしまえばおしまいである。僕らのユズの場合が、お客さんとのやりとりがまた楽しいのである。たぶんユズの香りがお客さんにまで乗り移ってお互いが幸せな時間を過ごすのだと思う。
 僕らのユズはいつからか誰も手入れをしなくなった木である。農薬はおろか肥料もあげていないのに、毎年、きれいなユズを実らせる。いわば自然の恵みなのである。そのユズ玉を摘むことは自然との交わりである。そして金曜市での販売は人との交わりである。二重の意味において嬉しさを感じさせてくれるのだ。
 賀川豊彦はそのエッセイ集『暗中隻語』でオバコの葉脈で紐を織る喜びを次のように書く。
「自然と人間の協力は、或る範囲内に於ては非常な喜びを人間に与へてくれる。丸太小屋、丸木舟、蔓で造つた釣橋、斯うした原始的な人類の創作物は、一面人間の独創的趣味をそゝると共に、自然の賜物の豊なることを深く教へて呉れる。野道を歩いて『おばこ』の葉をみるたびごとに、自然と私の距離が非常に近いことを私は感じる」
 僕らも同じ気持ちで今、ユズを搾っている。(平成27年11月26日)

命の捨所

2014年に全国の警察が把握した自殺者数は2万5374だったそうだ。賀川豊彦『暗中隻語』に「命の捨所」というコラムがあり、1925年当時、自殺数は1万5000人とあるから、人口比でいえば、日本は今も昔もあまり変わらない自殺大国だ。


 日本には、最近著しく自殺者が増加して来た。恐らくは、今年などは一万五千人も自殺することであらう。東京市では、三時間に八人づつ自殺する者があると云ふことを、新聞紙が報告してゐた。私は日本に於ける、自殺の原因を調べてみたが、その半分までは生理的また心理的病弱に原因する者が多い。そして約一割は厭世自殺である。さればと云つて、気の弱い女が多く死ぬかと云ふに、さうではなく、年若い青年が女に比べて倍近くも自殺するのはどうした事でもらう。私は日本国に向つて強く叫び度い。我々は強く生きねばならぬ。強く生きるのを宗教と云ふのである。即ち日本国民は、宗教的に生きねばならぬ。我々はより強い冒険と、より強い博愛心を持つて、柔弱な都会地方よりも大自然の下に、強く生きて行かねばならぬ。死ぬべき生命は彼処に捨つべきである。北海道の原野と、太平洋の波は、死骸を横たへるにさう狭くはない。猫いらずや細帯に委す生命があれば、日本の若き青年達は、須らく、原野と青海原に、さてはまた貧民と貧民窟に、その生命を捨つべきではあるまいか。(賀川豊彦『暗中隻語』から)

魂に国境はない

 魂には国境はない。釈迦は印度人でもなければ、日本人でもない。彼は魂の世界に属してゐる。キリストだつて然うだ。彼はユダヤに生れたが、ユダヤ人に属しては居ない。地球に属してゐる。否世界に属して居る。ユウクリツド幾何学に国境があるか。電気工学に国土の大小があるか。智識と最高の世界には、国土の広狭も支配者の有無も問題にはならない。
 智識と最高善は共産主義であつて少しも差支ない。霊魂の世界に国境を設けてはならない。日本主義も有難いが、霊魂の世界に征服を主張することは無益なことだ。私は日本人が日本人であることを自覚することを嬉しく思ふ。何も西洋かぶれする必要はない。併し真理に国境を設けて人類愛を皮膚の色に依つて区別することに、私は反対する。霊魂は国土を超越し、皮膚の色を無視する。霊魂はそれ自身世界主義者である。(賀川豊彦『暗中隻語』から)

暗中隻語と尽きせぬ油壺

『尽きせぬ油壺』のテキスト化が終わった。昨日から『暗中隻語』の取りかかっている。ヘイスティング博士が9月、『A Few Words in the Dark: Selected Meditations』と題して翻訳出版した話を聞いたからである。

負けてはならじとばかりに、今、馬力をかけている。読売新聞に連載したコラムを書籍にしたものであるが、そのなかに「九八 湧くよ恩寵の油壷は!」があり、以下にそのコラムを転載する。

 湧くよ、湧くよ、恩寵の尽きざる油壷は湧くよ、光明を見失ひ、空しく枯れ果てた油壷を、涙ながらに覗く時、あ々、湧くよ湧くよ、エリシャの油壷は湧くよ、資本も無く、投資もせぬに私の油壷には、神の油が湧き溢れる。もうこの月は行詰つたと思ふ時に、また油が、下から湧き上つて来る。シナイの荒野に、解放せられたる奴隷の一群を救はんと、天より不思議なる食物が降つた様に、私の上にも、不思議なる食物が天から降つて来る。病床に横はり、労作らしき労作もしないに、荒野に預言者エリャの食物を運んだ鴉は、今も私を見捨てゝ呉れない。湧くよ湧くよ、恩寵の泉は湧くよ、神の顔を見ずとも、私は神の手を毎日見てゐる。枯渇した油壷の底より、その日その時、要用なだけ油を湧かして呉れるものは、全く神の御手ではないか。

ユニバースとコスモ

 プリンストン大学のヘイスティング博士が徳島市で講演するというので、20日、妻と聞きに行った。在日23年という日本通であり、賀川豊彦をこよなく尊敬する牧師でもある。昨年、賀川の『宇宙の目的』を翻訳した。賀川が生涯をかけて書き上げた作品は難解である。生物の進化、岩石の歴史から始まり、原子と宇宙の構造の類似性に至るまで、独自の視点で考えた。神という言葉はほとんど出てこないが、不思議な法則性を帯びたこの宇宙が大いなるものによって設計せられたに違いないという結論を導く。

 日本語の『宇宙の目的』の表紙には「Purpose of Universe」とあるのを翻訳では『Cosmic Purpose』として理由について質問した。Universeは学問の世界の言葉で、Cosmoはもっと広い概念を持っているはず。賀川の弟子、小川清澄は、出版直後にニューヨークのジャーナリストに『Cosmic Purpose』のことについて語った記事がある。そもそも『Cosmic Purpose』の方が語感にパンチがあると思いませんかなどと説明してくれた。なるほど、神の存在を感じさせるのはCosmoの方だ。(平成27年11月22日) 

賀川豊彦作品が次々Kindleに登場

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