協同組合病院の嚆矢は島根県の日原共存病院

 家の光協会が発行している「JA教育文化」に協同組合医療の先駆者として島根県の大庭政治世のことが紹介されていた。賀川豊彦が中野総合病院を協同組合で経営を始める前に先駆者がいたことが分かった。現在のJA石西厚生連の日原共存病院であるが、2008年12月20日中国新聞の報道によると同12月12日に自己破産していたことが分かった。残念なことである。
 島根大学の北川泉学長が1997年9月20日〜21日に松江市で開催されたシンポジウム「地域のくらしと協同を考える――しまねからの発信」で、その大庭政世の協同組合病院について高く評価している。
「青原の大庭政世という当時の組合長は非常に馬力のある人で、協同組合思想も非常に堅固な方でした。 その人が大正8年に設立したのが、日本で初めての協同組合立の病院です。 そういう病院が島根県の各地にできます。最初は日原ですが、 その後新庄町の秋鹿病院、秋鹿は今は松江市に入っていますが。 それから安来のほうの母里、そして今の吉田村の田井診療所とかです」「当時、 診察料は無料、 そして薬代と手術代は2割引きということでした。そのうえどうしても入院を必要とし、 しかもお金がない人には無料で診療所を開放しました。そういうことをこの時代にやっているんですね。」(http://ha1.seikyou.ne.jp/home/kki/sinpo/simane/part1/simakyo.htmlから転載)
(伴 武澄)

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 おおば・まさよ(1882〜1939年)青原村産業組合長、全国産業組合保健協会常任理事、産業組合中央会島根支部副会頭、島根県信用購買組合連合会理事などを務める。
 大庭政世は産業組合による医療事業の創始者として知られる。明治十五年に島根県須川村(現・津和野市)に生まれた彼は、京都農林学校(京都府立大学の前身)を卒業後、愛知県立農事試験場の技手となり活躍した。
 四十一年、退職して故郷に帰り農業を継ぐ。大正七年、同志青年に推され青原村産業組合長に就任。翌年には、信用事業単営だった組合を信用・販売・購買・生産の四種兼営に切り替える。
 彼は、医療に恵まれない無医村のこの地に、産業組合ならではの相互扶助の精神と農民自身の力によって、医療施設を造ろうと決断。地方開業医の猛烈な反対を押し切り、青原に診療所が創設された。大正八年、全国初の産業組合による医療利用組合がスタートする。大庭、三六歳のときである。(「JA教育文化」12月号から転載)

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 ▽医師不足で赤字に拍車(http://www.chugoku-np.co.jp/Health/An200812200278.html

 農村医療の先駆けだったJA石西厚生連(島根県津和野町)が自己破産を申請した。過疎や高齢化が進む中、経営体質が弱くなり、国の臨床研修制度による医師不足や診療報酬の引き下げが追い打ちを掛けた。各地で医師不足が深刻化する中、中山間地域の医療が抱える課題を探る。

 「退職者が相次ぎ、資金繰りが難しくなった」。破産申請した十二日、記者会見した同厚生連の青木和憲代表理事は説明した。八月、給与カットなどの合理化案を労働組合に提示後、退職者が急増し、将来の退職金が払えなくなったという。

 十数キロ内に2病院

 一九八九年に日原共存病院、九一年には津和野共存病院を移転新築。介護老人保健施設訪問介護ステーションも開設した。その後、旧津和野町と旧日原町は合併し、町の現在の人口は約九千人。過疎化に加え、十数キロしか離れていない近隣地に二つの病院を建てたことで借入金負担が重くのしかかった。

 決定的だったのが二〇〇四年度からの臨床研修制度。医師不足に拍車がかかり、〇四年に十四人いた常勤医は八人に減った。日原共存病院を日原診療所にするなど経営改善に取り組んだものの診療報酬引き下げもあり、構造的な赤字に陥った。

 町は〇五年から一億一千万円の融資や計約三億円の補助を実行。三月には四施設を約十三億円で買い取り、同厚生連は指定管理者として運営してきた。

 しかし、四月から十月末までに看護師十一人を含む職員三十四人が退職。看護師不足による減収も見込まれ、このままでは機能できなくなると破産申請に踏み切った。全国三十六の厚生連で初の破産だった。

 「全国で最も古い厚生連が幕を閉じることになり残念」と同厚生連理事でJA西いわみの橋本正嗣組合長は話す。前身は約九十年前、大庭政世産業組合長らが設立した診療所。当時の農山村は貧しく、相互扶助の精神で農民自身が医療事業を始めた先駆的な取り組みは農村医療を全国に広げるきっかけとなった。

 サービス維持願う

 地域に根付いてきた同厚生連だけに衝撃は大きい。津和野共存病院は約六十人が入院、老健には約百人が入所している。母親がショートステイを利用している主婦は「ほかに行くところがない」とサービスの維持を願う。食品を納入する地元商店主も「いずれは自分も世話になる。つぶれたら困るから取引を続ける」と話す。

 四施設は、町などが出資して設立した医療法人橘井(きっせい)堂が後継の指定管理者となる予定だ。橘井堂理事長に就任した日原診療所の須山信夫院長は「地域医療をストップさせないよう今の体制を維持させたい」と話す。

 同厚生連から解雇され臨時雇用となった職員約百九十人を再雇用する方針を示し、新たに医師や看護師の募集も始めた。中島巌町長も「町財政は厳しいが地域医療の灯を消せない」と支援の意向だ。

 その一方で、須山理事長は「私も解雇された一人。何人残ってくれるか分からない。集まった人数を見て今後の運営規模を考える」と破産申請後の急展開に戸惑いを隠さない。

 橘井堂は本来、来年から日原診療所だけを切り離して運営するために設立された。四施設の運営を託された今、早くも経営戦略の練り直しを迫られている。(岡本圭紀)

 ●クリック JA石西厚生連

 1919年、農民運動から生まれた旧日原町の診療所が前身。全国に36ある厚生連で最も歴史がある。津和野町の津和野共存病院▽日原共存病院(現・日原診療所)▽介護老人保健施設「せせらぎ」▽訪問看護ステーション「せきせい」を経営していた。構造的赤字が続いたため、今年3月、4施設を町に売却し長期借入金を清算公設民営方式に移行して指定管理者として運営を続けていた。