EUの理念の一つとなった友愛経済の発想―キリスト教伝道者・賀川豊彦―

  (エース交易『情報交差点』2003年1月号掲載)

                          国際平和協会理事 伴 武澄

 賀川豊彦欧州連合(EU)誕生と関わりがあるといえば驚く向きも少なくないと思う。『死線を越えて』というベストセラー作家として知られ、貧民救済に生涯をかけたキリスト教伝道者というのが賀川豊彦という人物の一般的理解だからだ。

 世田谷区上北沢の松沢教会にある賀川豊彦記念・松沢資料館で、EC(当時)のエミリオ・コロンボ議長(イタリア元首相)が日本にやってきた時、EC日本代表部が発行した1978年のニューズレターを目にした。「競争経済は、国際経済の協調と協力という英知を伴ってこそ、賀川豊彦が提唱したBrotherhood Economics(友愛経済)への方向に進むことができる」とECの理念への賀川哲学の関与が述べられていた。

 憎しみを乗り越えたシューマン・プラン

 EUの歴史は1951年、戦勝国のフランスのシューマン外相が占領していたルール地方の鉄鋼、石炭産業をドイツに返還して国際機関に「統治」させるよう提案した「シューマン・プラン」に始まる。この提案がヨーロッパ石炭鉄鋼共同体条約の締結につながり、後のECの母胎になったことは周知の事実であるが、「復讐や憎しみは次の復讐しか生まない」というシューマン哲学はどうやら戦前に賀川豊彦ジュネーブで提唱したBrotherhood Economicsに源を発するようなのである。

 このBrotherhood Economicsは賀川豊彦が1935年アメリカのロチェスター大学からラウシェンブッシュ記念講座に講演するよう要請され、アメリカに渡る船中で構想を練った「キリスト教兄弟愛と経済構造」という講演で初めて明らかにしたもので、翌1936年、スイスのジュネーブで行われたカルバン生誕400年祭でのサン・ピエール教会とジュネーブ大学での講演から全世界に伝わった。

 「キリスト教兄弟愛と経済構造」はまず資本主義社会の悲哀について述べ、唯物経済学つまり社会主義についてもその暴力性をもって「無能」と否定し、イギリスのロッチデールで始まった協同組合を中心とした経済システムの普及の必要性を説いたのだった。

 賀川が特に強調したのは「近代の戦争は主に経済的原因より発生する」という視点だった。国際連盟条約が死文化した背景に「少数国が自国の利益のために世界を引きずった」からだと戦勝国側を批判し、国際平和構築のための協同互恵による「局地的経済会議」開催を提唱した。これは今でいう自由貿易協定にあたるのではないかと思う。

 その400年前、ジュネーブのカルバンこそが、当時、台頭していた商工業者たちにそれまでのキリスト教社会が否定していた「利益追求」を容認し、キリスト教世界に宗教改革(Reformation)をもたらした存在だったが、カルバンの容認した「利益追求」が資本主義を培い、貧富の差を生み出し、その反動としての社会主義が生まれた。賀川豊彦が唱えたBrotherhood Economicsこそは資本主義と社会主義止揚する新たな概念として西洋社会に映ったのだ。

 この講演内容はただちにフランス語訳されて話題となり、わずか3年の間にヨーロッパ、アメリカなど27カ国で出版された。スペイン語訳には当時のローマ教皇ピウス??世の序文が付記された。

 貧困救済から世界平和へ

 『死線を越えて』という小説は大正9年に改造社から初版が刊行されてミリオンセラーになり、いまのお金にして10億円ほどの印税を手にしたとされる。賀川豊彦は、神戸の葺合区新川の貧民窟に住み込み、キリスト教伝道をしながらこの作品を書き、手にした印税でさらに貧民救済にのめり込む。

 賀川豊彦キリスト教伝道者であるとともに、戦前は近代労働運動の先駆けを務め、一方でコープこうべを始めとする日本での生活協同組合運動の生みの親となった。戦後は内閣参与となり、アメリカのシカゴから始まった世界連邦論運動を平凡社下中弥三郎らとともに強力に推し進め、1951年には原爆被災地の広島で世界連邦アジア会議を開いた。この会議の精神はアジアの指導者の多くの支持を得て、1955年のバンドン・アジア・アフリカ会議に継承された。

 彼が単なるキリスト教伝道者でなかった背景には、徳島と神戸で回船事業を経営していた父親の血を受けたとする説もある。興味深いのは神戸の貧民窟に住み込んで「天国屋料理店」「無料宿泊所」「授産施設」「子供預所」「資本無利子貸与」「葬礼部」など次々と事業を考えたことである。互助互恵の精神で衣食住から学校、職場、貸金、葬儀までを自前で経営しようとしたのである。長男の賀川純基氏が作製した「賀川豊彦関係事業展開図」によると、賀川が関係した事業でその後発展したものには「コープこうべ」のほかに「全国生協連合会」「労働金庫」「全労災」「中ノ郷信組」「中野総合病院」など幅広い分野にまたがっている。

賀川哲学が貧困救済を基礎にしているのは、戦争も社会不安も経済的不平等に端を発していると考えたからであった。本来、宗教は魂の救済を求めるものなのだが、あえて宗教の枠を超えたところに賀川豊彦の真価がある。経済活動にまでその手を伸ばしたのは貧しい人々の自立のためであり、労働運動に手を染めたのも働く人々のまっとうな権利を回復するためであった。

 再浮上する協同組合的発想

 賀川豊彦が現代的意味を持つのは、やはり2001年9月の同時多発テロからである。90年代以降、アメリカの一国主義のもとで進んだ国際的な政治対立や貧富の格差拡大にどのように対処していけばいいのか。「仲間」であるか「敵」であるかを鮮明にすることを求めるアメリカに対して、ヨーロッパを中心にオルターナティブ的発想の重要性が唱えられており、互恵互助や協同組合的工作といった発想が再び求められているからなのである。
 昨年4月、賀川が少年時代を過ごした徳島県鳴門市に賀川豊彦記念館ができた。
記念館は世田谷区上北沢、墨田区本所、神戸市中央区吾妻通と4カ所になった。しかし賀川豊彦に対する関心はまだキリスト教伝道者としての貧民救済の域を出ていない。

 賀川豊彦が70年の人生で築き上げた経綸に対する理解不足ではないかと思う。人文から科学まで幅広い見識を持ち、いまでいえば経済・社会のトータルプランナーだった。ヨーロッパの人たちが幾度かこの人物をノーベル平和賞の候補としたのは単なる平和主義者としての賀川ではなく、平和を実現するためにどういう政治体制が必要なのか、どのような経済改革をしなければならいのか終生考え続けた、その功績に対する評価だったはずだ。

1954年、賀川豊彦が協同組合の中心思想として掲げた「利益共楽、人格経済、資本協同、非搾取、権力分散、超政党、教育中心」という言葉は人類がまだ追い求めていかなければならない理念ではないかと思う。

 ワシントンDCのジョージタウンにあるワシントン・カテドラルという英国教会の教会に、日本人としてはただ一人聖人として塑像が刻まれている

鈴木善幸氏の賀川豊彦への共感

 松沢資料館の杉浦秀典氏が「故鈴木善幸前首相も青年時代に賀川豊彦の感化を強く受けていたんですよ。影山昇『青年鈴木善幸と漁協運動』(成山堂書店、1992)に書かれていました」とそのコピーを見せてくれた。鈴木善幸といえば、自民党の最高幹部の一人、東北の漁協をたばねているということも聞いていた。漁協関係者による賀川論を聞くのは初めてだった。そのコピーを以下に紹介したい。

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 2 賀川豊彦の協同組合運動論への共感
 岩手県立水産学校在学中の鈴木善幸が特に関心を寄せていた人物に賀川豊彦(1888−1960)がいた。
 賀川はといえば、大正9年(1920)に雑誌『改造』に発表した自伝小説「死線を越えて」の著者として当時、広く知られており、同小説は同年10月、改造社から単行本として発売された初版5000部は即日売れ切れてしまうほど好評であった。
 内容についていえば、まことに複雑な家庭環境に生い立った賀川が、青春時代をさまざまな苦悩のなかで過ごすが、やがてキリスト教の愛に触れて人生の決意を見い出す。そして、つねに弱者の味方になって生き抜いていく決断を確固なものとしていくといった過程を、率直な筆遣いで書き綴っており、佐古純一郎はこの小説について、「今日から見て、高い芸術的価値を認めることはむつかしいが、第一次大戦後の日本の社会にあふれていた宗教的渇望にこたえて、民衆の心をつかんだところにこの作品が広く迎えられた意義があるのであって、その歴史的価値は否定することができない」と高い評価を与えている。
 ところで賀川豊彦は神戸生まれ。徳島中学在学中にアメリカ宣教師から洗礼を受ける。その後、明治学院、神戸神学校に学び、神学校時代には神戸市葺合の貧民窟に住み込み伝道活動に従事している。やがて大正2年(1913)に牧師の資格を得た。さらにアメリカのプリンストン大学に2年間留学。帰国して自伝小説を発表して一躍有名となる。
 著書で得た印税収入はすべて自分の社会労働運動の資金に使っている。
 賀川の社会労働運動とのかかわりについては、大正元年(1912)に創立された友愛会(会長・鈴木文治)に馳せ参じ、やがて同会の最高幹部のひとりとなっており、同会主事の西尾末広や大阪砲兵工廠職工組合の向上会幹部及びキリスト教の同志らと協力して賀川は大正8年(1919)6月、大阪に共益社を設立している。
 この共益社の宣言をみると、そこには「今日の商業組織に代わり、全くの営利の支配せざる相互扶助の社会が、一日も早く出現せんことを要求する」とかかれており、その綱領にはロッチデール先駆者組合を模範として「適当と信じたる貨物より、漸次製造を開始して、一に実用本位の物品を作り、並びに組合員に職を与えて、相互扶助の達成を期す」という一文も盛り込まれている。
 ついでに大正10年(1921)には川崎造船や三菱神戸造船争議を賀川は指導すると共に同年、神戸購買組合を創設しており、これが今日、日本最大の生活協同組合として知られている灘神戸生活協同組合の一つの母胎となっていることも注目されるところである。
 また大正11年(1921)にも「保険の協同化を主張す」を発表するとともに、第20回全国産業組合大会(大正13年、福岡市)を社会小説『乳と密の流れるる郷』中で紹介し、賀川はわが国での「組合保険や組合医療の先達のひとりとして評価されてもいる。
 だが大正13年(1924)末に共益社が欠損金2万円を出し、役員会では共益社解散論が優勢であったが、賀川はこの欠損を自ら引き受けて再建に乗り出している。
 その際、イギリスの先例に学び、洋服屋山田商店に詰め襟の国民服を製造させ、広く販売活動を展開するとともに、大正14年(1925)には商法による匿名組合として共益社事務所内に消費協同組合協会を設立し、これを地方の消費組合設立の機関とするとともに、販売活動で得た収益でもって、共益社の損金の大半を埋めることに成功する。
 それというのも昭和2年から5年にかけ、「賀川服」と称したこの国民服が毎年5万着売り上げ実績を示してくれたからである。
 いずれにしても賀川は協同組合運動に兄弟愛による理想社会の縮図を見出し、それが労働者や一般市民の生活を守る社会運動を支えるものとして位置づけ、この考え方に基づいて第一次大戦後、一貫して、この運動に情熱を傾けている。
 あわせ大正末期から昭和初期にかけての激動の日本の社会が、正しい方向を見失わぬために精神運動が不可欠であると確信していた賀川は、川崎・三菱神戸の労働争議の直後、キリスト教を信じる同志と『貧しき者の友となること』などを綱領とする「イエスの友会」を組織し、キリスト教伝道にも力を注ぎ始めている。
 こうした賀川豊彦の生き方に、一連の著書や論文を通じてつよい共感をもった鈴木善幸は休暇などで山田町の実家に戻ると、しばしば妹・テツミに持参してきた賀川の著書を読むようにと勧めている。
 また鈴木が目にする郷里はきわめて貧しい生活環境にあり、昭和初期に恐慌の波に洗われた地域の漁村の窮乏は極に達しており、しかもそこに存在する漁業組合組織はまことに弱体を極めていたということで、賀川の著書に触れて学んだ協同組合運動論をもって、郷里に戻るたびに、鈴木は地域漁村の生活者たちと話し合いの機会をもったり、討論などを積み重ねたりしている。
 なお賀川の感化に関して、鈴木は例の岩手放送のラジオ番組で次のように回想している。

 昭和4、5年から昭和7、8年ごろにかけては、農、漁村は未曾有の恐慌であって、特に東北の農村あたりでは、不況、冷害、凶作に見舞われて、娘を紡績工場に働きに出すというようなことはもとよりですね、娘を身売りさせるという悲惨な、深刻な農・漁村恐慌があったんです。で、そういうなかで賀川豊彦先生は、宗教家としての人類愛などの信念もあったでしょうし、社会運動としての立場もありまして、至る所で、この不況にあえぐ農村・漁村の救済、それは協同組合運動でなければいけない、というようなことで、都市においては消費者運動、それから、農村、漁村においては協同組合運動を通じて、農・漁民を経済恐慌から救ってやろう、と、こういう運動をされておった。その陣頭に立って各所で演説会などを催しておられたわけですね。(中略)ですから、賀川先生は政治家ではなかったけれども、宗教家であり社会運動家であった。そういう立場から、不況に喘ぐ農村・漁村民の救済運動、それに立ち上がった。行動を起こされた、と、こういうことで、私も漁村に育った青年として、大きな感銘を受けたわけです。

ユヌス氏の協同組合批判論

 企業組織に人間性をもたらし、考え方を啓蒙する一つの試みとして協同組合運動がある。そこでは、労働者と消費者が、全員の利益のためにビジネスを所有し、経営に参加するのである。
 ロバート・オーウェン(1771−1858)はウェールズ人で、イングランドスコットランドに紡績工場を所有し、経営していた。彼はしばしばこの運動の創始者と考えられている。オーエンは産業革命の初期に、労働者に対する搾取の現状に愕然とした。特に彼は、工場労働者に対して一般の通貨ではなく、会社の売店だけで使える臨時の紙幣で賃金を支払うイギリスの習慣を嘆いていた。しかもその店では、安物の商品にやたらと高い値段がついていたのだ。
 この抑圧の悪循環は、私が最初にグラミン銀行の設立につながる仕事を始めたとき、ジョブラ村で見た、金貸しによってバングラデシュ人がさらにひどい状態になっていた姿を思い出させる。また、アメリカ南部の地主が、小作人を搾取していたことを思い出させる。地主は労働者の負債を理由に、値段が高すぎる会社の店と取引することを強要した。彼らは余った資金が所有者のポケットにだけ流れ込んで、決して労働者のところには利益が行かないように閉じた経済のループを作り上げたのだ。
 オーウェンは、実際的な段階を踏んでこの問題に対処した。スコットランドのニューラナークにある彼の工場では、彼は大量仕入れによって質のいい品物がコストをほんの少しだけ上回る価格で買える店をオープンしたのだ。これこそが協同組合運動の芽であった。この動きは、顧客によって所有され、主に商人のためよりも顧客にとって利益があるように運営されるビジネスという概念に添っていた。オーウェンのプランで経営される店は今や当たり前のものとなり、イギリス全土とヨーロッパのあらゆる場所で運営されている。
 協同組合運動は、強欲な会社の所有者による貧しい人々の搾取に対抗して始まったものである。しかしながら、本来、貧しい人々を援助し、あるいはその他の特定の社会的な利益を生み出すという目的のためには、協同組合という概念は向いていない。協同組合事業の所有権を作り出し共有するために団結する人々の目標と利害が一致するかぎり、そういったビジネスは中流階級や貧しい人々の利益のために構築される。もし、利己的な支配に陥れば、協同組合事業は、社会のすべての人を助けるよりも、個人やグループの利益を得るために、むしろ経済を制御する手段となることさえできる。協同組合が本来の社会的目的を見失うとき、それは他と同じように実際には利益を最大にするための会社になってしまうのだ。(ムハマド・ユヌス『貧困のない世界を創る』早川書房から抜粋)

80年前に協同組合を世界に問うた日本人(3) 伴 武澄

 ロッチデールの5原則

 労働者の生活改善という発想は、ロッチデールの人々に受け継がれ、生活協同組合(コープショップ)という概念として後に確立する。当地の織物労働者たちによって1930年から試行錯誤が続けられ、1844年、13人のメンバーによって「ロッチデール・エクィタブル・パイオニアソサエティー」が発足した。
 彼らは毎週、2ペンスずつを1年間にわたって貯蓄して28ポンドの資金を集めた。10ポンドでオートミール、小麦粉、バター、砂糖、ろうそくを仕入れ、商いを始めた。初日の商いが終わってみると彼らは22ポンドの利益を手にしていた。
 彼らの当初の目的は、普通の人々がお金の価値に見合った商品を購入できることにあった。しかし、団結すること、協力することによって思いのほかの収益を手にすることも知った。彼らは新しい組織の運営方針を決め、収益の還元方法について考えざるを得なかった。
 ロッチデールの仲間が打ち出したのは簡潔な五つの原則だった。後にロッチデール五原則といられるようになった。(1)入・脱会の自由(2)一人一票という民主的組織運営(3)出資金への利子制限(4)剰余金の分配(5)教育の重視−である。
 まず株式会社の場合は保有する株数に応じて発言権があるが、出資金が何口であっても発言権は一人一票とした。これは画期的であるし、今でも引き継がれている大切な原則である。剰余金については、購入額に応じて還元するということである。株式会社の場合は保有株数に応じて配当されるが、たくさん利用した人ほど「配当」が多い。組織の保有者への還元ではなく、利用者への還元という意味において、現在の日本でも家電販売店の「ポイント制」として復活している。
 「出資金への利子制限」の意味は、利益のすべてを出資者に還元するのではなく、教育を中心に「地域」に還元するという考え方である。オーエンに倣ったものだと思われるが、税収が為政者のものだという時代において、地域の生活のレベルアップの資金を自ら作り出そうという意味合いが込まれている。現在でいうところの「公共哲学」と合致するのかもしれない。

80年前に協同組合を世界に問うた日本人(2) 伴 武澄

 ニューラナークの購買部

 賀川は単なる理論家ではなかった。1910年代末、神戸のスラムから労働者に団結を訴えた。鈴木文治らが東京で結成した「友愛会」の関西支部として1920年に「友愛会関西労働同盟会」を結成し、翌年、三菱・川崎造船所の労働者を組織して一大争議を巻き起こした。・・万人の労働者をストライキに巻き込んで、造船所の操業を止めてしまったこともある。労働者の防貧策の一環としてその中から1921年に生まれたのが「有限責任神戸購買組合」(神戸消費組合を経て現コープこうべ)である。1920年に大阪に「有限責任購買組合共益社」をつくっていたから、賀川にとっては二つ目の生協である。
 生協は1844年、イギリスのマンチェスター近郊のロッチデールで生まれた。生協の原型をつくったとされるロバート・オーエンはスコットランドのニューラナークで繊維工場を経営する傍ら、従業員のために工場内店舗を設けた。当時の商人は今から考えると相当にあこぎな商いをしていた。オーエンによれば、村の店で売っていた商品は「高くて品質は劣悪だった。肉であれば骨と皮に毛の生えた物ばかりだった」。村人は他に店がないことをいいことに、高くて劣悪な商品を買わされていた。しかも多くの商品は掛け売りだったから、村人の借金はかさむばかりだった。
 そうした状況は100年前の日本も同じだった。日本の文学にはそうしたあこぎな商売というものはあまり出てこないが、賀川の多くの小説には貧乏人が労働を通じて搾取されるだけでなく、購買を通じても大家に見合った商品が販売されていないことがこと細かく書かれている。
 オーエンのニューラナークの工場内の購買部では「生活の必需品と生活のぜいたく品、そしてお酒も必要」と考えられた。お酒についてオーエンは比較的寛容だった。酔った状態で勤務することは当時の工場では自殺行為に等しかったが、適度の飲酒は生活のぜいたくの一つと考えていたようだ。
 1913年の記録によれば、ニューラナークのオーエンの購買部は工場敷地のほぼ真ん中に三階建ての店舗を設け、工場経営者としての地位を利用して卸売りから安く大量に仕入れ、村の店のほぼ二割安の価格で販売した。販売したのは食料や調味料、野菜、果物だけでなく、食器やせっけん、石炭、洋服、ろうそくなど何でもあった。現在のスーパーの原型のような店舗だったようだ。
 ニューラナークでの賃金は他と比べて高いというわけではなかったが、当時、村を訪れたロバート・サウジーという人の報告によれば「一家で週2ポンド(40シリンブ)稼いだとしてニューラナークで住むことによって10シリングほど生活費は安くてすんだ」そうなのだ。オーエンはお金の価値を高めただけではない。購買部での利益を児童教育につぎ込んだのである。
 当時の多くの紡績工場では単純労働が多く、安い賃金で雇用できる子どもたちが労働力の中心だった。子どもといっても6歳だとか、7歳の今でいえば小学校低学年の児童も含まれていた。オーエンは10歳以下の児童の就労を禁止し、彼らに読み書きそろばんの初等教育をさずけたのだった。
 工場に残る1816年の記録では学校には14人の教師と274人の成都がいて、毎朝7時半から夕方5時までを授業時間とした。家族そろって工場で働いていた時代であるから、学校に子どもたちを預けることになって両親は家庭に気遣うことなく労働に専念できるという効果もあった。
 ロバート・オーエンは空想的社会主義者とも揶揄されるが、義務教育などと言う概念すらなかった当時のイギリスで、行政に代わって企業が「教育事業」を行った点でも画期的な発想だったといえよう。
オーエンの発想のすごさは「劣悪は生活環境下では不平を抱いた効率の悪い労働力しか生まれない」という考えを200年ほど前にすでに打ち出していたことである。19世紀の弱肉強食の時代に「優れた住環境や教育、規則正しい組織、思いやりある労働環境からこそ、有能な労働者が生まれる」(『新社会観−人間性形成論』)という確信に達し、自ら実践していたのだから驚くほかはない。

80年前に協同組合を世界に問うた日本人(1) 伴 武澄

 80年前の世界恐慌のころから、協同組合的経営の重要性を世界に問うていた日本人がいた。賀川豊彦。神戸・新川地区のスラムで貧しい人々と15年一緒に暮らした。日々の貧困と闘いながら、救貧の必要性を説き、防貧の対策を考えた。その末にたどりついた結論が「協同組合」だった。
1929年の恐慌はニューヨーク株式市場の崩壊をきっかけに世界の政治・経済を混乱の極みに陥れた。誰の目にも資本主義が強欲であることが分かった。その一方でソ連は崩壊する資本主義諸国を尻目に、社会主義を掲げて驚異的な経済成長を遂げつつあった。しかし、ソ連社会主義は暴力革命を基礎にしており、国家的暴力もまた世界を恐怖に陥れていた。賀川が提唱した協同組合的経営は資本主義の行き過ぎを牽制しながら、社会主義的要素を取り入れる手法だった。
賀川は自ら生協をいくつも経営しながら、理論書としていくつかの「協同組合論」を書いた。最も有名なのは1936年、ニューヨークのハーパー・アンド・ブラザーズ社から出版された『ブラザーフッド・エコノミクス』である。英語の他、フランス語、ドイツ語など十数カ国語に翻訳されて、“エコノミスト”としての賀川の名を高めたが、どういうわけか日本語にだけは翻訳されていない。
ブラザーフッド・エコノミクス』は恐慌後の経済立て直しに悩むアメリカ政府の招聘により渡米し、ニューヨーク州ロチェスター大学のラウシェンブッシュ講座で行った連続講義がそのまま出版されたものである。このとき、賀川は6カ月で全米48州、148都市を廻り、500カ所以上で講演し、約70万人のアメリカ人が賀川の肉声を聞いたという。
賀川豊彦の名は日本では、ベストセラー『死線を越えて』の作家としても、世界的な社会事業家としても忘れ去られているが、海外ではまだキリスト教社会の中で生き続けている。2007年にはオーストラリアでテレビ放映されたドキュメンタリー映画フレッチャー・ジョーンズ物語」では賀川の協同組合論が大きく取り上げられていたのは記憶に新しい。

地域医療を“貸しはがし”から救った草の根の力

 NBonlineで内藤真弓氏が「地域医療を“貸しはがし”から救った草の根の力」という意味深いコラムを書いている。いくつか視点がある。まずは金融機関の「貸しはがし」が病院にまで及んでいる点。画一行政のもとで財政からの支援もまさに"貸しはがし"状況が進んで、地域の診療機関が危機にひんしているのはここ数年の傾向で、決して見逃しにできない。

 もう一つは消費組合が運営している医療機関がまだ全国にいくつもあるということである。1932年、賀川豊彦新渡戸稲造らと組んで東京に「東京医療利用組合新宿診療所」を開設し、中野総合病院となった経緯はあまり知られていない。病院は医療法人が開設するという常識に挑戦した。医療保険がほとんど整備していない時代に、賀川が切り開いた天地はまさに革命的だった。つまり医療も助け合いの協同組合で行えば誰もが病気になっても困らないというものだった。当然ながら、 協同組合による病院設立は、当時の医師会から大きな反対運動を受けた。

 現在の中野総合病院は「生協法」のもとにあり、JAが運営している厚生連の病院は「農協法」の管理下にある。厚生労働省は「病院=医療法人」の元で一元管理しようとしているが過去に設立された協同組合立の病院だけはどうにもならないのである。ちなみに株式会社による病院も少なくない。麻生首相の親戚が運営する飯塚市の「麻生病院」は株式会社である。

 地域医療を“貸しはがし”から救った草の根の力