預言者エレミヤ8

  七 ヨシア王の戦死

 その後十三年間、エレミヤは何をしたかは充分知れません。然し、祭司ハバクックや名望家のゼパニアなどと協力一致してヨシア王の宗教改革に奔走したことは確実であります。
 けれども埃及アッシリア大戦争は益々迫って参りました。ヨシア王はアッシリア方でありますからエジプト王ネクニ世(聖書ではネコと出て居ります)のアッシリアに出掛やうと北の方へ進んでまゐりますのを途中で止めようと『神様が今度は行ってはならぬ』とお報らせなさるも聞かず、一合戦に花を咲かせやうと出陣いたしましたのが最後、哀れメギドの一戦に矢に射られて大痍を受け、エルサレムに還御まします道すがら、御崩御遊ばれたのであります。
 ユダヤ王朝ヨシア王まで十六代、人手にかゝって亡せられた方々も六人迄ありますが、ヨシア王の様に戦死遊ばされたのは唯一人でいらっしゃいます。
 そのためですか、また何の為めですか、もう国内はとりとめもつかぬ程の混雑で、人民の愁嘆と出せば言葉にもつくせぬ程でございました。迷信な人々はすぐ偶像をいぢり初めました。『どうやら、ヨシア王はアシタロテやバアルの罰があたったのだ』と申しまして。
 それに、ヨシア王も女に弱い処がおありなされたと見え、皇后とお妃の間に皇太子の位の争ひが有ったらしいのであります。で、どう云ふ理由かそこははっきり致しませぬが、兎に角、当時二十五におなりなさるエホヤキム王子は王様になれなくって、二歳下のエホヤハズ王子が位におつきなさると云ふことになったのであります。
 またそのエホヤハズと云はれる方が、信心の無いお方なものですから、エレミヤ初め信心深い人達の悲しみと云へばそれはそれは大したことでした。
 どう考へても、ヨシア王の死は惜しい。国運衰滅の兆だとしか考へられませぬ。涙脆い同情の厚いエレミヤはすぐ『哀歌』を作って、王の死を悼みました。そして国民もエレミヤと同感でございました。それで、此悲しい歌はすぐエルサレムに流行ました。
 処が、此悲しい哀歌のまだ失せない記憶の三月もたゝない中に、またパロ・ネクニ世がエルサレムにやって参りまして、エルサレムを目茶目茶にして王様を虜にし、年々エジプトに税金二十万円近く納めよと(金で三万二千円即一タラント、銀で百タラント即十五万六千円、今日で申せば僅かの様ですが、当時ではなかなか大金でした)命令し、エホヤハズ王の変りにエホヤキム王子を立てゝ王様にして置いて、さっさと埃及へ引上げてしまゐました。
 之にはエルサレムの人々も泣くにも泣かれぬ程辛うござりました。
『ヨシア王が生きてゐて下されば』と云ふことは思はず皆の口から出ました。そこでエレミヤの哀歌は長年エルサレムに唱はれ、百何十年間流行った相であります。然し、之は唯今聖書に残って居ります、エルサレムの陥落を歌った哀歌とは違って居ります。然し、何れ、エレミヤのことですから腸を抉ぐる様な歌をつくったことでござりましやう。(歴代下三五章、列王下三三章)