日本のNPO歴史と現状

第2章 日本のNPO歴史と現状

(1)日本の民間非営利組織の歴史的背景

1.組織概念からみた歴史的特徴

 NPOといえば何か新しいもので、日本の伝統から遠い存在であるかのように思われるが、必ずしもそうではない。営利を目的しない組織は、恐らくどのような文明においても、企業などの営利組織よりも古くから存在したと考えることができる。日本でも、そのような非営利組織は近代以前からさまざまなものが存在した。それらのいくつかの概念について検討することで、日本の非営利組織の歴史的あるいは文化的な特徴を見ておきたい。

一定の形をもった組織を示す概念としては、次のようなものがある。

「結い」:

 田植えや稲刈り、家の建て替えや屋根葺きなどのときに互いに労力を貸し合う行為とともに、その貸し合う仲間のことを「結い」(沖縄では「結いまーる」)という。「もやい」などとも言う。次に見る「講」とともに日本の伝統社会で最も親しまれた相互扶助組織の概念であるが、大和言葉の「結い」の方が土着的で自然発生的な性格が強く、日本人の心の基層にはより染み込んでいるとも言えよう。そのためか、労働の交換は近代化とともに金銭の授受に代わって現在では殆ど実質的な「結い」は存在しなくなったにもかかわらず、親しみを込めて今でもよく相互扶助型の非営利組織の名称に用いられる傾向がある。「結い」は非営利の組織ではあるが、その受益の範囲は構成員の仲間に限られ、互助あるいは互恵の組織といえる。なお「結い」の動詞「結う」は「ばらばらになっているものをまとめて一つの形に組み立てる意」(『広辞苑』(第5版))という。ここから紐や糸を結ぶ意味になったらしい。また漢字の「結」も同じく紐や糸を結ぶことを指し、このことから、結社、結団、結託、結党などのように、何人かで意識的に組織をつくる行為を指す言葉としてよく用いられる。

「講」:

 「結い」とともに日本で最も発達し普及した非営利の組織概念で、現在でも在来の生活慣習を残す農村部や旧い街には生きている。漢語としての「講」のもともとの意味は、論じたり学習したり説明をしたりするということであるが、日本には仏教とともに導入され、教典を教えることを意味するようになった。そこから特定の教典や本尊を中心とする信仰集団の集会や儀礼を指すようになり、それが中世には、その集団(組織)そのものを指すようになった。さらに参詣費用の積み立てを行うなど経済的な性格をもってくると、信仰とは関係のない相互扶助組織のことも指すようになる。「頼母子講」などがその例である。漢語の「講」は大和言葉の「結い」に比べると、特定の個人や集団の発想による自発性のある組織としての性格が強く、特に江戸時代になるとそのようなものが増えてくる。二宮尊徳の設立した「五常講」は共同責任による無利子融資の組織で、明治時代に関東から東海にかけて数多く設立された報徳社のモデルとなったもので、信用組合の原型でもある。幕末に秋田藩で設立された「秋田感恩講」は、飢饉の時などの救済のために藩の御用達商人が寄付をし、これに城下の武士たちも賛同して寄金を申しで、藩の公金とは独立した基金として運用したものである。一般的には「講」の受益者は講の仲間に限られるが、近世の末には、この秋田感恩講のように仲間以外の不特定多数の救済を目的とした組織を指すようになった点は注目される。

「座」:

 「銀座」の由来で知られるように、一定の自治機能と特権をもった商工業者などの同業者組織を指し、平安後期に発生して明治初期まで見られた。「座」は営利組織が営利を守るための組織といえるが、それ自体は今の同業者組合のようなもので非営利である。また自発的な組織ではあるがメンバーの閉鎖性は強い。このような意味での「座」は今ではほとんど用いられていないが、「座」という言葉自体は演劇や芸能の分野では健在である。「座」が劇場や劇団の名に用いられるようになるのは江戸の中村座など近世になってからで、一定の地域において芸能興業の権利をもつ「芸能座」に由来するものという。しかし座は劇場と劇団の両方に用いるから混乱する。江戸の中村座や東京の歌舞伎座明治座それに京都の南座などは劇場名であるが劇団名ではない。文学座といえば劇場名ではなく劇団名であるが、俳優座といえば劇団名であるとともに劇場の名前でもある。ともかく「座」はその本来の意味とは異なるが、芸術・芸能団体を表わす概念として今も生きている。

「連」:

任意性・趣味性の強い開かれた出入り自由な組織で、「座」の閉鎖性や次に見る「組」の固定性とは対照的である。「連」のもとの意味は「つらなる」ということで、ここから「連中」などとも言うように人の仲間を指すようになった。江戸時代には俳諧狂歌などをやる仲間が「○○連」といった名称で集まって自由な活動を楽しんだ。現在でも阿波踊りなどの祭りに「××連」の名でグループを作って参加することは有名であるが、さらに市民主導の選挙における「勝手連」の活躍など、「連」はその組織としての身軽さ性から新たな組織概念としての馴染みを獲得しつつある。

なお、連を用いた組織概念に「連盟」と「連合」がある。いずれも「国際」をつけると馴染みやすい。国際連盟はthe League of Nationsの、国際連合はthe United Nationsの訳である。いずれも一体に連なっていることを示すが「合」より「盟」の方が強い一体感を表わしているように見える。

「組」:

もともとは冠などの組み紐のことを言い、そこから、組み合わされて秩序を保つ組織を指すようになった。自然発生的な組織というより、外から意図的につくられた組織という性格が強く、主に非営利に用いるが営利について用いることもある。歴史上の重要な「組」としては近世初期に江戸幕府が全国に組織した「五人組」がある。連帯責任による納税や統治の手段として強調されるが、地縁的な相互扶助組織としての性格を持っていたとも言える。第二次大戦中に制度化された「隣組」も似た性格をもつ。江戸時代中期の町火消制度による「いろは四十八組」の「○組」も一種の非営利組織である。営利組織として「組」を用いてきたのは主に職人の世界でる。その代表が工務店などの建設業界であるが、最近では名称変更によって「組」の名も消えつつある。現在で「組」といえば学校での○年「○組」程度で、非営利の組織概念としての馴染みは次第に失せつつある。逆に中国の文化革命時の「三人組」や暴力組織の「△△組」など、反社会的な私的組織に用いられることが多い。

なお「組」に関連した言葉としては「組合」が今もよく使われている。『広辞苑』では、その説明の?として「利害または社会機能の共同によって連帯的に結合した集団」とあり法的な解説が続く。『角川大字源』には「組合」という言葉はないから、中国では使用されていなかった概念であろう。「組合」が用いられたのは日本でも江戸時代の末になってからで、二宮尊徳の小田原仕法組合や大原幽学の先祖株組合などが先駆けである。組織の性格としては講に相当し、組合員(構成員)の利益を目的としている。明治になってからは法的な制度用語として普及し、現在では信用組合労働組合、各種の協同組合などとして頻繁に用いられている。

また「組」を用いた熟語で最もよく用いられるのが「組織」である。『広辞苑』では?として「社会を構成する各要素が結合した、有機的な働きを有する統一体。また、その構成の仕方。」とある。「組織」のもとの意味は?の「織物の緯(タテ)糸と経(ヨコ)糸とを組み合わせること」である。『角川大字源』ではまず?に「糸を組んで機を織る」があり、?として「人や物が集まってつくる秩序のある団体」がでてくる。「組織」という言葉がそのような団体を表す言葉として日本でいつ頃から使用されるようになったのかは、今回は調べていない。

「団」:

団体、団長、団結の「団」であり、軍団、青年団、調査団などとして用いられることからも分かるように、目的を共有する者の求心性の強い集まりを意味し、組織形態も横の関係より縦の関係が強いイメージがある。一般に非営利のものを指すが民間に限らず政府の組織にも用いることがある。「団」はもともとは「丸める」とか「丸いもの」という意味で、そこから「集まる」とか「集まり」の意味をもつようになって組織を表すようになった。伝統的というより近代的な組織名として普及した比較的新しい概念である。しかし現在では、固有名詞としては「○○劇団」など、舞台芸術関係の名称として以外にはあまり用いられることがない。その強い求心性と上下関係の組織性が、個人の自由を求める現代には馴染みにくいのかもしれない。

なお「団」に関しては「団体」という言葉が非営利組織に対して大変よく用いられる。この言葉は、『広辞苑』によると「?なかま。くみ。あつまり。?共同の目的を達成するために意識的に結合した、二人以上の集団。法人・政党・クラブなどの類。」とあり、団体競技などと言う場合の一般的な人の集まりを言う場合と、団体職員などという場合の明確な社会的存在としての組織を言う場合がある。ちなみに『角川大字源』では「団結した組。同じ目的を持つ者の集まり。」とあり、『広辞苑』による後者の意味のみとなる。この言葉がいつ頃から日本で用いられるようなったかは、今回、調べることができなかった。

「会」:

「○○会」といえば今ではもっとも普通の非営利組織を意味する。しかしもともと「会」は組織というよりも行事を示す言葉で、伝統的には「ゑ」と発音し、宗教的な儀礼を表していた。そこから、近代以降、そのような行事を恒常的に行う組織の名にもなった。それ故、同窓会、研究会、連絡会などのように行事と組織の両方の意味に用いられることもある。また懇親会といえば行事名ではあるが組織名にはならないし、商店会といえば組織名であっても行事名にはならない。そのような両義的な意味を持つためか、接尾語が「会」だけの場合は比較的小規模で形式化しない軽い気持ちで設立される組織を指すことが多く、大規模な形式化した団体では協会・協議会・振興会などのように、別の漢字と合成して用いることが多い。大正時代から昭和戦前にかけては報恩会という言葉が助成財団を示す組織の名称としてよく用いられていた。しかし明治の末から昭和初期かけては、それまでの「社」に代わる形で「会」の名が大規模で形式的な重々しい非営利組織に頻繁に用いられていた。特に皇室からの恩賜金によって設立された恩賜財団などに顕著で、済生会、慶福会、愛育会、援護会、育英会などがその例である。なお明治の初期には「会」は営利組織にも用いられていたようで、今でも用いられている「○○商会」はその名残といえる。

「社」:

 一定の目的のもとに人々が集まった組織で、江戸後期から明治初期にかけては報徳社や赤十字社など、主に非営利組織を示す語として用いられていた。また同じ頃「社中」という言葉も用いられたが、この用語も含めて「社」には共通の思いで自主的・意識的につくられた組織という感覚が強い。「結社の自由」などとも言うように「社」を組織するには明確な意志が存在する。その「社」をつくるために集まった人が「社員」であり、その社員をもとにした団体が「社団」であって、財産をもとにした団体の「財団」と対比される。しかし、「社」は明治の末からはむしろ営利組織を示す語として普及し、現在ではほとんど営利組織にしか用いられない。「○○社」と言えば企業を指すようになっている。「社員」と言えば会社の従業員の意味にも用いられて混乱するのも、そのためである。

なお先の「会」とこの「社」を合成すると「会社」になり、今では株式会社や有限会社などの営利法人の概念として確立している。『広辞苑』では?として「商行為(商事会社)またはその他の営利行為(民事会社)を目的とする社団法人。」と説明して4種の会社をあげ、?として「同人の会。学会。」をあげ『明六雑誌』第1号の記事の用例を引用している。会社制度が確立する前の明治初期には、「会社」という言葉が非営利組織にも用いられていたことが分かる。なお『角川大字源』には「会社」はでてこない。この言葉は日本で使用され始めたものであるが、その初出がいつかは確認できなかった。

その他:

 明確な形をとった組織の概念ではないが、組織になる以前の人の集まりを示す概念も、日本には色々とある。それらの言葉の特徴がそのまま日本の非営利組織の特徴を示しているように思うが、ここではそのいくつかの言葉だけを掲げるにとどめたい。「 」に示した意味は『広辞苑』による説明である。

<派>:「流儀・宗旨などの流れ。なかま」  党派、学派、派閥など。

<党>:「なかま。ともがら」  政党、徒党、党員など。

<壇>:「専門家の社会」  画壇、論壇、文壇など。

<盟>:「誓って仲間の約束をすること。ちかい」  同盟、盟約、盟友など。

 これらの言葉については、さらに具体的な用いられ方の変遷をたどっての検討が必要だが、ここで簡単に気づくことをあげれば下記の点が指摘できる。 

?幅広くNPO一般を指す言葉はないが、さまざまなニュアンスの非営利組織を示す言葉があり、むしろ多様な非営利文化の存在を思わせる。

?しかしいずれも仲間内の利益を目的とした共益型の組織の概念で、受益が構成員以外におよぶ組織の概念はほとんど見あたらない。

?組織を示す概念の多くは漢語で、大和言葉はほとんどない。日本の組織の特性としては、日本固有の文化というものよりも、中国文化あるいは中国を通じて伝来した仏教文化の影響が大きいように思われる。

?同じ言葉でもそれが示す組織の意味は時代とともに変遷する。今も用いられている多くの組織概念は、幕末から明治にかけて用いられ始めたものがほとんどであるが、明治以降でも現在までにかなりの意味内容の変化がある。それは時代とともに変わる組織観の変化とも理解できる。

?近代以前から存在した概念については、今ではそれに対応する組織実態はほとんど無い。しかしその概念の再評価から、新たな現代的な組織に対しても再使用されるものもあり、今後もさまざまな可能性があろう。

2.近代以降の法人制度と税制の変遷

日本の法人制度は、明治29(1896)年に公布され同31(1898)年に施行された現行の民法によって規定されている。その第33条は、法人は法律によってのみ成立するという法人法定主義を定め、第34条で公益法人について、第35条で営利法人について定めている。営利目的ではないが特に公益を目的としたものでもない非営利の団体は、個別に特別法を制定しなければ設立できない形になっており、この欠陥は早くから法学者によっても指摘されていたという。

公益法人については、社員に基礎をおく社団法人と財産に基礎をおく財団法人の2種を定め、いずれも主務官庁の許可によって設立され、設立後も監督されることになっている。その具体的な組織要件等については民法の84条までに規定されているが、主務官庁とはその団体の活動内容を所掌している官庁のことで、「公益」とはこの官庁が認めるものということが重要である。そこから、自ずと「公益」は「官益」あるいは「省庁益」にならざるをえないという構造をもっている。

この民法の基本は、戦後に憲法が変わっても変わることがなかった。その後の変化と言えば、第二次大戦中に行われた各主務官庁の許可・監督権を都道府県等の行政庁に移譲するという臨時措置が戦後も続き、数年前に民法の本文に盛り込まれたこと等の若干の改正に過ぎない。しかし戦後しばらくの間に、宗教法人法による宗教法人、私立学校法による学校法人、社会福祉事業法による社会福祉法人などの特別法による公益法人制度が確立し、民法公益法人の対象とする団体の範囲はかなり狭められてきた。

この30年余りにおける民法による公益法人制度の変化は、その運用に関するものである。設立許可や設立後の監督などの法の運用については、公益法人制度の乱用を防止し主務官庁毎の最低限の統一を図るという観点から、70年代以降、総理府を事務局とする事務レベルの連絡協議会で申し合わせてきた。この協議会は80年代には事務次官レベルの指導監督連絡会議となり、96年からは閣議で指導監督基準を申し合わせるようになった。それと共に設立許可基準は次第に厳しいものになり、民間の発意による非営利組織の法人格の取得は、ますます困難になってきた。設立や指導監督の許可基準が閣議決定事項となったとは言え、公益法人制度の運用が国会の議を経ることなく、行政府の判断だけで変化してきていることは、やはり今後の課題と言えるだろう。

公益法人に対する法人税については、当初より原則非課税となってきたが、戦後のシャープ勧告によって50年から特定の収益事業に対しては課税されるようになった。ただしその税率は企業等の営利組織に比べると10%程度の軽減税率になっており、公益法人は優遇されている。また公益法人に寄付をした場合の税制優遇については、61年に試験研究法人等の制度ができ、主務官庁と大蔵省の合議によって試験研究法人等に認定された公益法人への企業等の寄付については一定の損金扱い枠の拡大が認められた。続いて62年には、試験研究法人等に対する個人の寄付についても、一定の範囲で所得税の控除が行われるようになった。この制度は88年に特定公益増進法人制度に改められて今日に至っている。なお企業の寄付については、戦時中に臨時の措置として一定限度を損金算入することができるようになり、これが戦後の47年に損金算入限度額の制度として定着した。必ずしも公益法人だけを対象としたものではないが、企業が一定額の支出を損金扱いで寄付できる制度として一定の役割を果たしている。このような仕組みは、個人の寄付に対しては存在しない。

なお民法は営利法人の設立については、別に商事会社設立の条件に従って定めることとしている。商法や後には有限会社法によって具体的な組織要件が定められてきたが、基本的には特定の官庁と関わりなく、公証人の認証と法務局への登記のみで設立可能になっている。公益法人の許可主義に対してこれを準則主義と言うが、民法成立以前においては株式会社も主務官庁の免許制になっていた。産業の発展という観点から自由化したものと思われる。ただし企業の生産活動自体については、それぞれの省庁の監督やさまざまな規制が存続し続けた。

以上の明治以降の制度的な展開が、先に見た伝統的な非営利組織の概念の変遷にさまざまな影響を与えてきたと考えることができる。

3.新生活運動の展開と「あしたの日本を創る協会」の活動

第二次大戦後の占領期には、占領軍は一方で隣組を基盤とする町内会・自治会を禁止するとともに、他方でアメリカのさまざま非営利活動を導入した。PTAや子供会の活動、公民館活動、民間社会福祉を支えるための共同募金などがそれである。国民生活再建のための新生活運動が提唱され全国各地に展開されたたのは、そのような時代の雰囲気の中においてであった。1947年に閣議決定された「新日本建設国民運動要領」は、この運動の目標として、勤労意欲の高揚、友愛協力の発揮、自立精神の養成、社会正義の実現、合理的・民主的な生活慣習の確立、芸術・宗教およびスポーツの重視、平和運動の推進の7つを掲げていた。民主主義社会と合理的な生活の実現に向けての強い意志を感じ取ることができる。このような目標を背景に、1955年にはその全国的な実施機関として新生活運動協会が設立され、新しい生活スタイルの全国への普及をはかった。新生活運動は市民というよりも住民の地域活動によるという側面が強いが、戦後50年の草の根の非営利活動を見る上でも重要な役割を果たしたと思うので、その後の活動の展開過程を協会の事業の展開を通じて概観しておきたい。(「新生活運動協会二十五年の歩み」および「ふるさとづくり賞 ’87」〜「同 ’99」)

新生活運動協会は、広報活動や指導者の研修会を通じて合理的な生活の普及を図ってきたが、高度経済成長が軌道に乗りつつあった64年からは新たな運動方針のもとに、新しい村づくり町づくり運動、職場を明るくする運動、国土を美しくする運動、くらしの工夫運動、を重点的に進めた。65年には第1回の「美しい町づくり賞」全国コンクールを開始している。また、主婦たちが中心の活動として始まったくらしの工夫運動は、「科学的な調査・事前活動」をもとに学習し、関係する企業や行政と「対話集会」を行って問題解決の合意をつくりあげ、「事後処理活動」で具体的に実現を図るという問題解決のシステムを創ることによって、全国各地の生活学校運動として大きく発展する。

81年には従来の姿勢を変え、新しい時代にふさわしい生活のあり方や個性豊かな地域社会を創造していく活動を全国に盛り上げることとし、課題の視点を、省エネルギー活動の推進、資源リサイクル・システムの確立、明るい家庭と地域社会の確立、正しい食生活の確立、自主防災活動の推進、高齢化社会への対応、におくこととした。そして82年、新生活運動協会は、あしたの日本を創る協会に改組する。

改組後に始まった活動で今まで続いているものに、それまでの「美しい町づくり賞」引継ぎ、「あすの地域社会を築く住民活動賞」を経て今に続いている「ふるさとづくり賞」がある。86年度から始まったもので、創意豊かな地域の活動に取り組んでいる集団、市町村、個人を対象に全国から400字で10枚程度の記録を募集し、その中からそれぞれに大賞、賞、奨励賞を選ぶものである。これらの毎年度の受賞内容については「ふるさとづくり ’○○」として刊行されているが、それらを通じてこの10年間余りの全国各地でのさまざまな地域活動の具体的な様子を見ることができる。その分析は今後の課題としたい。

4.「市民活動」への着目

80年代後半以降の民間非営利活動の動きを見る上で、「市民活動」という考えかたが着目されたことが重要である。「市民運動」という言葉は戦後早くから用いられ、現在でも頻繁に用いられているが、それに対して「市民活動」という言葉はまだそれほど一般に馴染みがあるとは言えない。この言葉が公的に用いられたのは、1972年に東京都が社会教育施設として「市民活動資料コーナー」を設置したのが最初と思われるが、必ずしも明確な概念として市民活動の言葉が一般化したわけではない。その後、1984年にトヨタ財団(当時、山岡がプログラム・オフィサーを勤めていた)で、新たに始める助成プログラムに意識的に「市民活動」の言葉を用いた。政府や企業などの外部の権力に対して反対したり要求することを主とする「運動」に対して、自らが社会への働きかけとして独自の実践をすることを「活動」としたのである。この観点から「市民活動」を定義するなら、「社会に対して責任を感じた市民が、共同して社会への働きかけを目的に自発的な独自の実践を行うこと」と言えるだろう。

この市民活動の言葉は、その後もしばらくはジャーナリズムでも余り使われることはなかったが90年代になると時々用いられ、少しずつ普及し始めた。94年には3月に総合研究開発機構から『市民公益活動基盤整備に関する調査研究』(山岡が総括委員長を勤める)の報告書が出され、11月には「市民活動を支える制度をつくる会」(シーズ)が設立され、関係者の中では市民公益活動や市民活動が議論の対象となってきた。

その翌年の95年1月には阪神・淡路大震災が発生、その直後から新しい非営利法人制度の議論が活発になるにつれ、これらの言葉が頻繁に新聞などにも登場するようになった。特に96年12月に与党3党から市民活動促進法案が提出されてからは、その傾向が著しい。法案審議中の97年4月には経済企画庁の「余暇・文化室」が「余暇・市民活動室」に改称されるなど、政府のポスト名にもなった。市民活動促進法案は修正に修正を重ねた末、98年3月に特定非営利活動促進法と名称を変えて全会一致の成立を見るが、一旦使われだした「市民活動」の言葉は、政府・自治体も含めて各地各分野に広がり、現在に至っている。
財団法人あしたの日本を創る協会
NPO」は外来の言葉であるが、「市民活動」は内発的な言葉である。この言葉を伴うことによってNPOという言葉自身にも内発的な意味合いが付加されたように思うが、またそれ故にNPOに対する認識の混乱も招いたと言ってもよいだろう。日本社会の長期的な課題としては、市民活動団体に限らずより幅広い民間非営利組織としてのNPOの諸分野すべての改革と発展を考えないといけないが、取りあえず現在の日本社会で重要なのが、市民活動団体としてのNPOであるということを確認しておきたい。
(「あしたの日本を創る会」から転載)
http://www.ashita.or.jp/npo/houkoku/h11ho2a.htm