賀川豊彦とガンジー(GAIAの日記から転載)

 賀川豊彦とガンジー(GAIAの日記から転載)

「わたしの非暴力1」125ページより

1939年1月16日、当時の日本において有名なキリスト教伝道師であり、社会運動にも尽力した賀川豊彦がバルドーリにガンジーを訪問した。
当時日本は中国に侵略戦争を開始していた。
この2年前、1937年7月盧溝橋事件を起こし、8月には第2次上海事変、海を越えて爆撃を行い、9月には北京・天津より南進を開始した。11月には杭州湾に上陸し、蘇州攻略。日本軍は政府の指示を無視して戦線を拡大し、それを政府が追認するという悪循環に陥っていた。そして12月1日には参謀本部は南京攻略を許可し、17日には日本軍は南京城に入場した。南京大虐殺を犯した。翌1938年4月には参謀本部は徐州攻略を許可し、5月には国家総動員法が公布される。日本の中国侵略はまさに泥沼化していった。
そういう状況の中でこの会談は行われた。

ガンジーは、まっさきに賀川から聞きたいと思っていた問題に話題をすすめて言った。
「戦争について、日本の人々の感情はどうでしょうか?」
「日本では私はむしろ異端者です」と賀川は答えた。
「私は自分の見解を述べるよりも、むしろあなたから、もしあなたが私の立場にいたなら、どうなさるかお聞きしたいと思います。」
「私の見解を述べるのは、僭越になりましょう。」
「いいえ、私は本当にあなただったらどうなさるか知りたいのです。」
「私なら自分の異端をきっぱりと公言して、撃たれるでしょう。
は一方のハカリの皿に協力者の仕事と自分の仕事のすべてをのせ、
他方のハカリの皿には国民の名誉をのせるでしょう。
そしてその名誉が売られていることに気づいたら、自分の見解を日本に対して宣告します。
そうしながら、あなたの死を通して、日本を生かしめるように願うでしょう。
しかしこのためには、内なる確信が必要です。
私があなたの立場にいたとすれば、私がいま自分で言ったことが全部できるとは思いません。
けれども、あなたに求められたので、私の意見を申し上げたのです。」

「私の信念もそこにあります。
しかし、友人たちから思いとどまるよう懇願されています。」
「なるほどそうでしょう。
けれども、あなたの内なる友が『こうせよ』と命ずるとき、世の友人の言葉に耳を傾けてはなりません。
また友人というものは、どんなに良い友でも、時には私たちを結構だますものです。
彼らには、そうする他に説得のしようがないのです。
彼らはあなたに、生き延びて仕事をしてくれと頼むでしょう。
私が牢獄に行こうと決心したとき、同じ訴えが私になされました。
けれども、私は友人たちの訴えに耳をかしませんでした。
その結果私は、牢獄の4つの固い壁の中に閉じ込められたとき、自由の輝かしい喜びを見いだしたのです、
私は暗い独房にいましたが、それらの壁の内からはすべてが見えるが、、外からは何も見えないことに気づいたのです。」