私の科学の第一ペーヂ

  八六 私の科学の第一ペーヂ

 平凡なる周囲の事物の研究から、私の科学の第一ペーヂを初めたい。私は、自分の立つてゐる土の性質に就いて知り度い。小石に刻まれたる断層の起原に就いて学び度い。路傍の雑草の生活内容に就いて、その秘密を教へて貰ひ度い。自分の頭上に輝く星の世界を知り尽し度い。
 何故、今日の大学では、土と、雑草と、小石と、星に就いて、もう少し深く教へないだらうか。自然科学と云へば、抽象的なこと許り教へて、我々の眼界に現はれてゐる、極手近な世界に就いては、何等教へて呉れる所がない。然し私の知り度いのは、そんな飛び離れた心理に就いてではない。私は、土と小石によつて啓示せられたる物質の成立に就いて、知りたいのである。小石の上に刻まれた、波紋の経路には、地球の成立と並行した古い歴史があるに違ひない。私はそれに就いて知りたい。荒地に繁茂して行く『あれちの菊』の生命の中には、人間が究知し得ない神秘の影が秘められてゐるに違ひない。生れて幾十年、毎晩の様に星を仰いで、その名も知らない我々の不欄さよ、あゝ、私は平凡なことが知りたい。平凡の平凡に属する、私の周囲にある凡ての事象に就いて知りたい。
 願はくば、土と、木と、火と、金と、水と、風の精の私に囁かんことを!

貧乏の享楽

 二三 貧乏の享楽

 私は貧乏を享楽してゐる。
 多く持つことは悲しい事である。何も持たなければ、面倒くさいことがすくない。
 斯う云ふ意味は、何も衣食住に不足したい、と云ふ意味ではない。どうにか、こうにか喰へてさへ行けば、私は大きな家に住みたくない。私は森の中に往みたい。田螺と『めだか』と蓮の葉が、私の友達になつて呉れる間は、私は金持になりたくない。だから私の労働運動なども、多く持つ事の要求の運動ではない。
 生きて行くこと、働くこと、人間らしくあること、この三つの要求にしか過ぎない。私は貪ることの労働運動をしたことはない。

二 炎天下のバラツク

  二 炎天下のバラツク

 バフツクは室内九十五度で、午前十一時過ぎはもう仕事も何にも出来ない。今年の夏の苦しみは誠に今から想像がつく、本所のバラツクの不良状態を研究したところが、五千二十二戸の直ちに改良を要すべき不良住宅が見付かつた。この状態では今年の夏の病死者は頗る多いことであらう。老人などで、あの焦げつく焼けトタンの下に住んで居る人々などは、病気になれば、とても救はれないであらうと思ふ。祈らざるを得ぬ。
 あまり急がしいので、近頃は読書の時間も、書く時もなくなり、弱つてゐる。
 此夏はまた大勢のヴオランチヤーが助けて下さるそうだから、調査に、救済に、賑やかに働けることゝ今から楽しみにして居る。私はもう八月のプログラムをきめられて、休みも無く馬車馬の如く一本軌道を走らさせられることになつた。
 松倉町に居ると毎日数人の身上相談を受ける。それらの人々のお世話をしてゐるだけで、一日の仕事が充分ある。その代り私は何にも出来ぬ。私はお世話することの悦びを持つと共に更に労作の出来ぬことを悲しむ。
 松倉町の仕事もだんだん進んで、寄宿舎の建築にも愈々取かゝることになつた。
 私は少し暇があれば、纏つた書物を書きたいと思つてゐる。それが出来ないのが悲しく思はれる。人が充分読み、充分書く暇を持つてゐるのが羨しく感ぜられる。然し明治四十二年の冬から今日まで、いつも今のように急がしく続いたのだと思へば、自分なから、不思議に思はれる。
 四ツ谷鮫ケ橘の野口幽香子女史は二葉幼稚園の創設者として有名なかたであるが、上流婦人の伝道に随分力を注いでゐられる。そこに集る人々は多く華族の夫人達であるが、なかには実に熱心な方も居られる。戸田子爵夫人などは最も信仰に燃えた一人で膵臓炎の痛みに苦しんで居られるにかゝはらず、実に驚く程の忍耐と勝利を持つてキリストの祈を祈りとし、『み心の儘になさせ給へ』と病床で祈りつゞけられてゐられる。私は或朝同姉を病床に訪れてその美しき信仰に大いに教へられた事であつた。同姉の上に、神の祝福を祈つてゐる。
 私の人気を気に病んで、或雑誌が大きな新聞広告に『現代の青年子女を迷はす賀川豊彦』と題して、私に公開状をくれたが、私の人気収りをいかぬと云ふのだ。何をしても新聞が一々私の行動を報告するものだから、凡てを悪いと或人は考へるらしいのだ。別に人気を得るためにしてゐるのではなく、たゞキリスト教を説きそれを実行してゐるだけなのだが、それが人気の元となるなら、キリスト教がもう少し人気の中心にならねばならぬ筈である。どうせ、『世にあたりては難みを受けん』とある通り、いつも人に可愛かられるばかりが、本分とは思はないから、もう少し憎まれもし、苦しみもしよう。然し私は存外、人の批評には平気である。
 ジョン・パリスの小説『きもの』を読んで私は実によく書けた小説だと感心した。なるほど、日本人をあれほど悪罵すれば痛快であらう。白人から見て、黄色人種はあゝも見えるであらうと私は考へた。もしも日米間の問題が永遠の問題であるとすれば『きもの』に現れた排日気分が、その根本的動機だと私は考へた。私はあの中に現れた恋愛などには少しも感心しなかつた。娘の性恪などは少しも描かれてゐない。それで私は恋愛小説として読まないで、日本批評としてあれを読んでみた。折々は日本の悪口を聞く必要もあらう。
 松沢村に来ると、青い森や畑にいきいきする。今年は此処に多くの子供を連れて来て、遊んで貰ふ。然し此処でも日中は相当に暑いので、机を狭い座敷中引づり廻はして原稿を多く、
 光の園托児所は実に立派なものが出来た。あれを二三年の中に取払ふことは惜しいと思つた。あしこで子供等が遊べることはどんなに幸福かも知れない。早いものだ、坊やが生れて一年六ケ月になる。坊やは貧民窟から持つて来た気管支炎を松沢村の善い空気で癒さうとしてゐる。紫外線にあてるために裸体で外に出す。坊やが松の木に登る。そのために四肢をまつやにで真黒にする。私は村に来た吾児を見て、貧民窟のお児供衆に心より同情して居る。夏のテント避暑はこの意味からも有意義だと考へて居る。
 神戸の事業は『死線を越えて』の印税で一万五千円の財団法人として置いたが、財団の外に伝道もあるので毎月どうしても現在でも五百円は経費に要る。それを私は一生懸命に祈りつゝ筆を持つて維持して居る。幸ひにも妻の妹の芝八重子が女子医学専門学校を今年の秋に卒業するので、神戸に行つてくれることゝ思つてゐる。伝道の方は武内勝兄が十年一日の如くやつてくれてゐる。
 私は本所で、一千名の集まる礼拝所の与へらるゝことを祈つて居る。みなさんも、私のために祈つて頂きたい。
 今井よね子女史が私達の為に献身して下さつた。同女史はお茶水高等女子師範学校を卒業せられて後、北越の滑川女学校の教授を永くしてゐられたが、あの地で実に驚くべき忍耐で伝道せられ、遂に昨冬、彼地を辞職せられて、我等のために奉仕して下さるやうになつたのだ。私は同志の一人として今井女史の敬虔な態度に常に敬服してゐるのであるが、どうか神が同姉を導いて、善き指導者として貧民窟の真中に据ゑ給はんことを祈るものである。セツルメント・ウオークには男の仕事よりも、女の仕事の方になす可きことが多いのであるから、同姉の如きしつかりした方がその方面に熟達せらるるならば、どれだけ善き仕事が出来るか知れない。私は同女史の新しき出発を心より祝福せずには居れぬものである。
 私は貧艮窟で一緒に働く同志とは、多く一緒に居る兄弟とは、多少欠点が有つても仲間として家族的に附き合つて来た。その為に、初めて接せられた方は、私が欠点の多いものを引立てゝ行くのに対して変に思はれるかも知れないと思ふ。然し、一旦同志だと名乗つた以上、そして一年以上一緒にやつてみて、その長所短所がわかれば、そんなに簡単に離れられるものではない。私は与へられた同志はたとひ叛かれても瞑黙する。
 然し私は長年の貧民窟生活に気が荒くなつて居るために、我ながら耻しいやうな言葉使をしていつも後悔してゐる。凡てを天父に赦して頂くより外はない。
 理想の生活を送れなければ生きないがました。現実に迎合して戦ふことを忘れたたゞ世間並の生活であれば、私は私達の団結を直ちに解散しよう。そのために多少いつも奮闘せねばならぬと私は考へて居る。私はかく祈り、かく努力してゐる。天の父様、どうぞお助け下さい。アーメン。

一 アンペラ御殿を中心として

  一 アンペラ御殿を中心として

  貧乏人でも家を建てる

 いつか、貧乏な私だつて、家の一つ位建てたいと思つて居た。恰度武蔵野の林間学校の炊事小屋を取毀さなければならなくなつたので、それを私の勉強室に改造することにした。
 それまで私は、『死線を越えて』の第三巻を害かうと思つて、府下松沢の大きな杉林の中に天幕を張つて仕事をして居た。森の中というものは、存外不便なもので、風は通らないし、蚊は多いし、その上、陽は充分通してくれないので、私は一寸困つてゐた。併し震災気分をまだ持ち続けて居た私は、森の中の不自由を二ケ月以上も辛棒した。
 併し天幕が古かつたので、雨降りには何時も蒲団を濡らして全く閉口してゐた。それだから炊事小屋でも天幕より遥かに佳いと思つたものだから、直ちに自ら設計して、四畳半一室の書斎を拵へることにした。勿論柱だけは炊事小屋に使つて居た長さ五尺の三寸角をそのまゝ用ゐることにして無駄のないやうにした。天井を張りたかつたか、天井を張ると私の頭が閊(つかへ)るので、震災当時本所の天幕で敷いてゐたアンペラを天井に張りつけることにした。張るのに苦心したが、竹の弾力性を利用して『A』形に張ることにした。
 小屋の時には、尾根はトタンばかりであつたものだから、夏など迚も暑くて這入れなかつた。それで私は、トタンの下に板を敷くことにした。家はそれで何うにか、斯うにか出来たが、柱が細いので風が吹くと倒れる恐れがある為に、北側に三尺に一間の押入れを付けることにした。押入れと云つても、カーテンで仕切るだけで戸などは入れてない。
 窓は一間に四尺の仕入の硝子戸を買つて来て南側につけた。雑用全部を見積つてみると、道具代から上敷まで入れて八十六円かかつた。大正十三年十月一目に起工して、この大工事に約二週間を費した。それを最初の一目だけは私も手伝つたが、亜米利加旅行の期日が迫つて来たので、私は余儀なく田井君と佐々木君と私の弟と三人に依頼して、私はその後充分伝ふことは出来なかつた。
 斯うして出来た小屋は天幕よりも明るく、実に気持の佳いものであつた。只硝子戸を五枚も入れたので、その為に経費が馬鹿に嵩んだことを後で馬鹿らしく思つた。私は三坪二十円位で建てようと思つて居たのが、トタン板が高いのと、材木が高いので思つたほど安くは出来なかつた。併しもう彼れこれ満二年使つて居るが、便利なことこの上なしである。

  ゴシツク建築代金三十八円也

 ところがその中に弟の妻はこの四畳半の家で子を生ねばならぬことになつた。親子四人の為にはあまり狭いので東側に三畳敷の小屋を建て増すことにした。硝子障子を余り多く入れると高くつくので小さい窓を二つつけた。外見からは西洋造りの似に見える、ゴシツク式鋭角に近い屋根を待つた家を造つた。この経費は凡てで三十八円かゝつた。
 これより先、村の日曜学校に使つて居た天幕には家の青年二人が寝て居たが、冬があまり寒いので天幕の形だけの大きさをもつたバラツクを造ることにした。恰度私は或る講演会の御礼として貰つだ、五十円の金を持つて居たので、それを渡して、材木を買うことにした。処がこれは日曜学校の目的で造らうとした為に、二間に三間の小屋を、内部に柱がないやうに造らねばならなかつた。
 処があまり良い柱を使ふと経費に影響するので、柱なしで建てることは頗る困難であつた。その結果はまたひよろひよろの家が出来たので、北側に三尺に三間の押入を造ることを余沢なくせられた。ところが段々建てゝ行くと共に上手になつて来て、東側に一間の硝子戸を建て、南側に、四尺に三間の硝子障子を入れても、僅か百三十円で足りた。
 大工の手を借らずに小屋を建てる秘訣を覚えた私達は、村の材木屋から最も悪い板と往を買つて来てその後小屋を二つ建てた。一つは寒さ除けに南京袋を部感の内部に張り詰めたので、袋の家と呼んだ。然し袋は梟に通ずるのでいまは梟の家と呼んで居る。
 梟の家は、私の為に絶えずオートバイを運転してくれてゐる富樫君と、弟益慶の二人が建てた。生えて居る松の木などを一本でも切らない様に、西南隅などは、態々三尺ばかり削り取つて奇妙な家を造つた。この家は鋸と飽などの新しい道具を買ひ揃へて建てた為に、合計九十六円かゝつた。その中十七円は道具代たつた。

  古木で建てた雀の家

 その後、四畳半の座敷に三尺に一間半の押込みをつけた『雀の家』といふのを建てた。これは古木で建てたので釘代しか要らなかつた。完全な柱と云ふのは一本もなく、皆接木して建てた。それでも材木屋から新しく買ふならば、坪十五六円についてゐるかも知れない。勿論その中最も高価なものは硝子障子である。二軒も三軒も建て々居ると、段々上手になるもので、富樫君は、もう一流の大工になつた様である。最近富樫君は、眼病になつた私の為に、初めて雨戸の這入つた約五畳敷の部屋を造つてくれた。これは富樫君一人で建てたのだが、普通の大工が吃驚して居る。この経費は約五十円位だと思ふ。もう三ケ月前に出来上つたものだが、村の材木屋さんは呑気だから、まだ勘定を取りに来てくれない。

カインとアベル

 詩人バイロンは、人類の父祖、アダムの二人の子が、喧嘩したこのを批評して、カインは、平和なる野菜を神に捧げ、アベルは、血生臭い羊を祭壇に持つて行き、神はアベルを嘉納して、カインを退けたが、カインが怒るのは、当然であると云ふて居る。
 私はそれに就いて、深く考へてみた。私は、カインとアベルは二つの文明を現はして居ると思ふ。カインの文明は農業文明を現はし、アベルの文明は遊牧の文明を現はして居る。カイン文明はアベル文明に対して、一日の進歩を持つて居るが故に、兄として取扱はれて居るが、イスラエル民族から見ると、彼等は始めて、パレスチナに麦の種を蒔いた人々であつたのだ。だから即ち彼等は醜悪なるパレスチナの農業文明に比較すれば、まだ原始的な純潔さを失はずに居たとも云へる。
 然し、牧畜文明は、どちらかと云へば、共有共存の原始的な、道徳を保存して居り、農業文明は独占と奴隷的労働の、搾取を意味して居た。農業文明の来ない前には、奴隷文明はなかつた。その惨酷な文明に対して、遊牧文明が反抗したのは、当然である。即ち私は、イスラエル預言者宗教は、この原始的な遊牧種族の宗教を、奴隷制度を製造する農業文化の迷信に対して、飽くまでも訟訴し、維持した運動であると考へて差支へないと思つて居る。
 つまり、今日の農業文明が、工業文明の搾取に反抗すると同じ意味に於て、遊牧文明は、農業文明の搾取に対して反抗した、アベルとカインの物語の意味であらうと思つて居る。
 勿論遊牧文明は農業文明に殺された。兄のカインは弟のアベルに勝つた。併し搾取制度に反抗する心持は、神そのものの本質から出たものであつて、工業文明が農業文明に置き変るべきものであるにしても、その搾取に反抗することは、少しも間違つて居ないと同様に、神がアベルに味方したと云ふことも、必しも間違つたことだとは云へない。

韓国で進む賀川再評価

日韓国交正常化50周年を記念して、同志社大学大学院社会研究科助手で日本基督教団洛陽教会協力宣教師の李善恵(イ・ソンヘ)氏による講演「賀川豊彦と韓国」が9月19日、賀川記念館(神戸市)で行われた。
 クリスチャンツウデイ
 李善恵氏によれば、2009年には、「社会宣教献身100周年」と題して賀川をテーマにシンポジウムがソウルで行われるなど、最近注目が集まっているという。

 その理由として、李氏は2つを挙げる。1つは、日本と同様、韓国では経済格差が広がっており、キリスト教と社会運動という視点から興味が集まっているためだ。また、韓国では2012年に協同組合基本法が制定され、7759団体の協同組合(2015年現在)が活動しているが、その約半数は出資金50万円以下、組合員数は平均8・8人程度と小規模であり、大半の協同組合が経済的に自立できていないという問題があるという。協同組合の精神を見つめ直す視点からも、賀川に関する研究が増えており、その生涯を描いたマンガも出版されているという。

理想的生活

 高知に帰って生活して4年半になる。年金生活者ではあるが、他人にすがる生活が厭になったからである。何でも自分でこなせる生活に一歩でも近づきたい。そんな思いがある。囲炉裏部屋の大工仕事も半分は自分でやった。木炭を焼くことも自分でエネルギー源をつくりたいとおもったからである。今、その延長で山菜をとっている。正月の餅つき用に餅米もつくった。ことしは正月飾りに挑戦しようと思っている。

 生活としての最も喜ばしきものは、簡易な生活である。凡てが自分一人こぞつて行ける様な生活こそ、理想的生活と云つてよい。自ら建てた小屋の中へ、自ら築いた竃を据ゑて、自ら作つた野菜を料理して、自ら織つた着物着、自ら凡てを簡単に処理して行くことは、何と云ふ気儘な生活であらう。それこそ誰をも奴隷としない、誰をも王様としない、自分一人が王様で、自分一人が下僕で、自分一人が芸術家で、自分一人が労働者である。誠に簡単な世界である。
 斯うした生活を池に近い森の辺で営んで、毎日、梟と小狐と一緒になつて生活をして居れば有難くもない都会の雑音なんかどうでも宜い。自分一人が実行出来なければ、せめては自分の一家族だけでも、斯うした生活に近いやうに、導くべき筈である。唯に、自分の家族ばかりでなく、村全体が、斯うした生活に甘んずる傾向をつくるべき筈だ。機械が少しも邪魔にならない。機械もまたこの自主の生活に隷属すれば宜いのだ。(『暗中隻語』から)